第4話 手探りの推理
湖のほとりに打ち捨てられた炭焼き小屋に、ハンナは再度監禁されていた。
陽が傾き、西の空が赤く染まった後、周囲を闇が覆う。
小屋に備え付けられた天窓からは次第に、星明かりが差し込み始めた。
そんな外界の移ろいには目もくれず、ハンナは今回の事件について考えを巡らせる。
他殺か? 事故死か? 他殺だとすれば犯人は誰なのか?
僅かな手掛かりと記憶を頼りに、ハンナは推理の湖底へと身を沈めていた。
まずは、自分が鍋を受け取ったシーン。最も怪しいのは、七面鳥のグリルを持って来たあの女中である。彼女には、毒を入れるチャンスがふんだんにあったはずだ。
しかし、とハンナはそこで疑問を差し挟む。あの女中が毒を入れたとしたら、二人で毒味をしたのは、いったい何だったのだろうか。ハンナが味見をしていたとき、女中が不審な行動を取った記憶はない。スプーンに何か細工があったとも思えない。そもそも、スプーンに口をつけているのだから、それは同じことである。
もしかして、少量では効かない毒薬だったのだろうか?
……いや違う。ハンナは一人かぶりを振った。もし少量で死に至るほどの劇薬なら、ハンナ自身にも何らかの兆候が現れているはずだ。ハンナがイルジオに鍋を渡してから出口へ向かうまで、ほんの数秒しか経っていない。少年が口にした量も、たかが知れて……。
そのとき、ハンナは重大なことに気が付いた。イルジオは、あの七面鳥に手をつけたのだろうか?
記憶を振り絞ってみても、少年が食事をしていた音が再生されてこない。
「そうか……毒は鍋に入ってたんじゃないのよ……」
独り言ちたハンナは、もう一度前後のシーンを思い出す。
テーブルの上には何があっただろうか……?
……何もない。水差しも皿もなかった。それに、イルジオは腹が減って死にそうだと言っていた。何か別のものを先に食べていたとも思えない。
待てよ、とハンナはそこで記憶のフィルムを巻き戻す。イルジオは、ナイフとフォークを手にしていた。あれに毒が塗られていたのではないだろうか……?
ところが、この閃きも、すぐに失望に取って代わられる。ナイフかフォークに毒が塗ってあったとしても、イルジオは七面鳥に手を付けていないのだ。それを口にする機会がない。
……そうだろうか? ハンナは、三度意見を変える。もしイルジオに、食事前にフォークを舐めるとか、そういう癖があるとすればどうだろう?
あれだけ行儀の悪い少年である。十分にありうるマナー違反だ。
そこまで思考の筋糸を手繰ったところで、ふいにノックの音が聞こえた。
扉が開き、室内がほんのりと明るさを増す。
「失礼致します」
見知らぬ女中が、戸枠に姿を現した。
手には、木でできたお椀を持っている。
「お水をお持ち致しました」
「……ありがとう」
女中は入口のそばに椀を置くと、すぐに扉を閉めようとする。
「ちょっと待って」
ハンナの呼び声に、女中がぴたりと手を止めた。
「……何でございましょうか?」
「ひとつ質問したいんだけど……イルジオには、食事のときに何か癖がなかった? 特に、最初の一口を食べる前に……?」
女中はしばらく答えるのを躊躇っていたが、ついに唇を動かす。
「……いえ、そのようなものはございませんでした」
「本当に? 何でもいいから教えてくれない?」
「何でもと仰られましても……もし癖というものがあるとすれば、すぐに料理に手をつけられることくらいでしょうか……」
女中の答えに、ハンナは肩を落とす。
これでは、ハンナの推理と全く逆である。
「……他には何か?」
女中が、消え入りそうな声で尋ねた。
「……イルジオが口にした毒薬の名前は分かる?」
「……いえ、存じません」
さすがに無理な相談だったか。
ハンナは、次の質問に取りかかろうとした。
「おい、さっきから何を喋っている!?」
小屋の外で、男の声がした。見張りの一人だろう。
女中は振り返りもせず、戸の縁に絡めていた指に力を込めた。
「では、これで失礼致します……」
女中は頭を下げ、有無を言わさず扉を閉める。
室内を、再び闇が充たす。
「……」
ここで挫けてはいけない。ハンナは自分にそう言い聞かせ、もう一度推理に取りかかる。
トリックがナイフとフォークでないとすれば、どこに可能性が残されているだろう?
経口の毒薬ではなく、吹き矢か何かで暗殺されたのだろうか?
もしそうだとすれば、拘禁状態のハンナには、もはやお手上げである。
「参ったわね……」
ハンナは小屋の中を見回す。こうなったら、スフィンクスに頼るしかない。
だが、スフィンクスはどうしているのだろうか?
もし彼女も捕まっているとしたら……?
そんな不安に襲われた瞬間、ふいに天窓から差し込む明かりが消えた。
ハンナが振り仰ぐと、小さな猫目がふたつ、こちらを覗き込んでいる。
スフィンクス! ハンナは喜びが沸き起こるのを抑え、入口を警戒する。
「ハンニャ様……? いますかニャ……?」
「ここよ……見える……?」
スフィンクスは体を動かし、室内に明かりが入るように隙間を作った。
「ニャ、ハンニャ様、無事でよかったですニャ」
ハンナは扉の方を注視しながら、スフィンクスの声を耳で追った。
「まあ、無事ってわけでもないけど……ところで、何か分かった?」
ハンナの質問に、スフィンクスは首を左右に振る。
「ダメですニャ……ニャにも分かりませんニャ……」
「そう……」
ハンナは、軽く溜め息を吐く。
とはいえ、スフィンクスを責める気にはならない。
わざわざ危険を冒してここまで来てくれたのだ。
ハンナは、質問の対象を変えることにした。
「医者は見つけた? その人から、色々聞きたいんだけど……」
「医者ニャら、もう街へ帰りましたニャ」
スフィンクスのあっけらかんとした返事に、ハンナは驚愕した。
「帰ったあ!?」
ハンナは、慌てて自分の口元を押さえる。
しばらく様子を伺い、誰も来ないことを確認すると、天窓に目を向ける。
「どういうこと? 何で取調べが終わってないのに帰るのよ?」
「知りませんニャ。医者に訊いてくださいニャ」
まるで他人事のように答えるスフィンクス。
その光景に、ハンナは既視感を覚えた。
おかしい、何かがおかしい。ハンナの中で、未知の不安が広がる。
「それより、早くここを出ますニャ」
困惑するハンナに、スフィンクスが追い討ちをかけた。
何を言っているのか、ハンナには理解することができない。
「出るって……どうやって?」
「さっき見張りがトイレに行きましたニャ。今は誰もいませんニャ」
ハンナは、出口へ視線を走らせる。
見張りがいない? そんな馬鹿な……。
絡み合った釣り糸のように、ハンナの思考がこんがらがっていく。
「ニャにを迷ってるんですかニャ!? このままじゃ死刑にニャりますニャ!」
そうだ、時間がない。事件の真相については、また後で考えよう。
そう決心したハンナは、出口へと足を伸ばす。
「小屋を出たら、南の川沿いに山を降りますニャ。そこから漁村に出られますニャ」
ハンナはそこでふと足を止め、天窓を見上げる。
ちょうど屋根から降りようとしていたスフィンクスと、目が合った。
「ハンニャ様! 早く!」
「ねえ……私、朝から何も食べてなくて、お腹が空いてるんだけど……」
スフィンクスの目が、暗闇の中で光る。
「今はそんニャ場合じゃありませんニャ! 食べ物ニャら後で探せばいいですニャ!」
スフィンクスのアドバイスに、ハンナは満足げに頷いた。
「後で探せばいい……か……」
もう一度、スフィンクスが催促しようとしたとき、ハンナが先に唇を開く。
「ありがとうスフィンクス。犯人が分かったわ……犯人は……」




