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第2話 UMAと少年

「うニャー! きれいな湖ですニャ!」

 川沿いに30分ほど登ったところで、ハンナたちの眼前に、大きな湖が開けた。まさかこんなところに山上湖があるとは、ハンナも予想だにしていない。山陰になっているからか、それとも水源が地下水なのか、湖は満々と水をたたえている。

 通りで川が干上がらないわけだ。ハンナはひとり合点がいった。

 スフィンクスは子供のようにはしゃぎながら、空腹も忘れて水際に駆け寄る。

「魚が一杯いますニャ! 干物じゃニャくてこっちにしましょうニャ!」

「こらスフィンクス! 遊んでないで挨拶に行くわよ!」

 名残惜しそうに水辺を離れたスフィンクスを伴い、ハンナたちは大きな天幕の前に案内された。周囲には物々しい警備。どうやらここが主人の住まいらしい。

 ハンナは面持ちを固くする。

「こちらがイルジオ様のテントです。しばしお待ちを」

 年配の兵士が先に入り、取り次ぎを行う。

 数分ほど待たされた後、ハンナは天幕の中へ通された。

「失礼致します」

 天幕の中は、野宿の雰囲気を微塵も感じさせない、快適な空間になっていた。床には絨毯が敷かれ、天井に取り付けられたランタンが室内を黄金色(こがねいろ)に照らしている。

 そしてその奥に少年がひとり、不釣り合いなほど背もたれの高い椅子に座り、ふたりの女中にかしずかれていた。歳は13、4といったところだろうか。栄養の行き届いた子供らしく、顔のところどころにニキビの痕が見える。

「おまえがハンナか?」

 声変わりしていないぶっきらぼうな声が、ハンナの胸を突く。

「はい、私がハンナでございます。此の度は……」

「面倒な挨拶は要らぬ。僕がイルジオだ。そこの猫は?」

 イルジオは、スフィンクスを興味深そうに指差した。

「お、おいらはスフィンクスですニャ」

 スフィンクスの返事に、イルジオは無邪気な笑い声を上げる。

「ハハハッ! スフィンクスですニャ、か! おかしなやつだ!」

 物真似でからかわれたスフィンクスは、しっぽをピンッと立てていきり立った。

 ハンナはすぐさまそれを押しとどめる。

「よいぞ、こやつらは面白そうだ。いい遊び相手を見つけたな」

「ハッ、お気に召されたようで、光栄であります」

 ハンナはようやく理解した。どうやら、あのふたりに騙されてしまったようだ。女性を気遣うかのような発言で安心させておき、面倒な子供の遊び相手にさせる。兵士たちの狡猾な手口に、ハンナは内心歯ぎしりした。

 うま過ぎるときは注意せよ。母親のそんな忠告が、今さらながらに思い起こされる。

「では、失礼致します」

 男が踵を返す。

 すれ違い様、ハンナは男の顔を睨みつけた。男は素知らぬ顔でそれをスルーし、天幕を出て行く。

「ハンナ、僕がこの湖に来た理由を、既に聞いたか?」

 イルジオの声。ハンナは姿勢を正し、恭しく答えを返す。

流行病(はやりやまい)をお避けになられたと伺いましたが……」

 少年は小馬鹿にした笑みを、口の端に浮かべる。

「ふん、病気程度で、遠路はるばるこんな山奥まで来るものか。僕は、オッシーを捕まえに来たのだ」

 何もかも嘘だったことに憤りつつ、ハンナはオッシーなる単語に眉をひそめた。捕まえに来たと言うのだから、動物の一種なのだろう。

 少女は、当たり障りのない返事を返す。

「左様でございますか。不詳ながら、そのオッシーとやらは存じませんが……」

「この湖の主さ。竜の形をした化け物だ」

 ハンナはそのとき初めて、少年の瞳を正面から捉え返した。

 この子供、頭がおかしいのだろうか。そんな思いがハンナの顔に出てしまったのか、イルジオは不愉快そうに唇を結んだ。

「その顔、信じていないな。よいか、オッシーというのは、この湖にいるという、伝説のドラゴンなのだ。見たという者もいるぞ。僕はそのドラゴンを生け捕りにして、屋敷の庭で飼うつもりなのだ」

 天幕を出て行った男の顔を、ハンナは思い出す。心底ホッとしたような顔だった。そして今、彼の主を前にして、ハンナはその表情の意味を悟った。普通の遊びならまだしも、伝説の竜を捕まえに出掛けるとは、正気の沙汰とは思えない。少なくともハンナには、子供の空想としか感じられなかった。

 ハンナはこの場で怒鳴りたい気持ちを、何とか押さえ込む。

「まあよい、もうすぐ昼食の時間だ。少し休んでおけ」

 そう言うとイルジオは、ハンナたちをテントから追い出してしまった。

 スフィンクスはあいかわらず尾を立て、ハンナに抗議する。

「こ、これは酷いですニャ」

「確かに酷いわね……まさか、こんなことになるなんて……」

「こっそり逃げますかニャ?」

 しっぽを硬くしているスフィンクスの横で、ハンナの腹の虫が鳴る。

 自分たちが飢えかけていることを、ハンナはようやく思い出した。

「……とりあえず食事にしましょう」


  ○

   。

    .


「ニャハ! 2日ぶりの食事ですニャ!」

 ハンナが止めるのも聞かず、スフィンクスはテーブルの上の肉にかぶりついた。

 その場に居合わせた人々は苦笑しただけで、それを咎める者はいない。

 青空の下、小さな即席テーブルの上に用意された食事は、どうやらハンナとスフィンクスに充てられたものらしい。そう判断したハンナは、淑女のマナーも忘れて、パンを口一杯に頬張った。

「そんなにがつがつしなくても、誰も取りゃしねえよ」

 どこかで聞いた声。

 ハンナが振り返ると、そこにはあの年配の兵士が立っていた。

「あ、あんひゃ!」

 パンを口に含んだまま、ハンナは男に食って掛かる。

 男の胸を小突き、それから咀嚼しているものを飲み込んだ。

「あんた、あんな嘘吐いて、ただで済むと思ってるの!?」

 いきり立つ少女をあやすように、男は両手を上げて見せる。

「おいおい、そんなのお互い様だろ?」

「……お互い様?」

「お嬢ちゃんだって、こっちの勘違いにつけ込んで、しゃあしゃあとここを通過するつもりだったんだろ? それなら、こっちが多少嘘吐いたって、怒られる筋合いはねえわな?」

 男の正論に、ハンナはぐぅの音も出ない。最初からバレていたとは。自分の演技力もまだまだだと、少女はにわかに反省する。

 とはいえ、それで怒りが収まるわけでもない。余ったパン切れを齧って、ハンナは腹の虫を収めようと努力した。

「と、とにかく、あのガキは何なのよ! オッシーを飼うとか、馬鹿みたい!」

「しーッ」

 男は唇に手を当てる。

「本人に聞かれると、洒落にならないんでね。ちったあ口を慎んでもらおうか」

 相変わらずおどけた口調だったが、目は笑っていない。

 近くにイルジオがいないことを、ハンナは慌てて確認する。

「……そのオッシーって、本当にいるの?」

 ハンナの問いに、男は大きく肩をすくめた。

「さあな……見たって奴は何人もいるが……」

 男は湖に視線を移す。ハンナもその行く先を追った。

 波ひとつない穏やかな湖面に、水鳥が数羽、優雅に泳いでいる。

「ただ、何かいることだけは確かなんだよなあ……」

 男の呟きに、ハンナは視線を戻す。

「……どういうこと?」

「この湖、夜になると妙な気配がするんだ。まあ、まだここに来て2日目だしな。俺の気のせいかもしれねえが……」

「妙な気配? 慣れない場所で、神経過敏になってるんじゃない?」

 ハンナの軽口に、男は顎を撫で、自嘲気味に笑った。

「それがな……夜になると、見えるんだよ……」

「見える……? 何が?」

「竜の影がさ……。どうやらこの湖の主は、見えちゃいけねえものを人間に見せてくるらしい……。何年か前も、うっかり猟師がそれで湖に引き込まれそうになったって話だ……女の姿が見えたとか言って……」

 ハンナはもう一度、湖面に視線を伸ばす。

 ひたすらに静寂を漂わせる湖は、男の話に全くそぐわなかった。

 少女はパンをもう一口齧ってから、皮肉気味に答える。

「ただの錯覚じゃないの? 疲れると幽霊が見えるって言うしね」

 強がってみせたハンナの隣で、男は黙って踵を返した。

 肩透かしを喰らったハンナは、男の背中を黙って見送る。

「ま、その目で確かめてみるこった。……今夜当たり出るかもしれんぜ?」

 そう言って男は仲間たちのもとへ戻り、水辺にはハンナひとりが残された。

 ハンナは湖を眺めながら、もくもくと食事を続ける。

「今夜……ね……」


  ○

   。

    .


 その夜、ハンナは湖のそばで火を焚き、竜の幻影が現れるのを待っていた。

 星々の斑点が広がる空の下で、虫の音が聞こえて来る。

 他にも何人か、好奇心の強い者たちが、少し離れたところで同じように焚き火を囲んでいる。子供にはもう遅い時間なのか、その中にイルジオの姿はなかった。

 捕まえろと言った本人なのに。ハンナは呆れて物が言えない。

「ほんとに出るんですかニャ?」

 眠たそうに座っているスフィンクスが尋ねた。

 ハンナは視線を湖面に固定したまま、言葉を返す。

「それを確かめるために起きてるんでしょ?」

「フニャ〜……」

 正直なところ、ハンナも半信半疑だった。そもそも論で言ってしまえば、この手のUMA伝説の大半は、繁殖上の問題から眉唾物なのである。一頭の竜がいるだけでは、子孫を残すことなどできないのだから。

 ハンナが夢も希望もないことを考えていたとき、それは起こった。

「おい! あれ見ろよ!」

 若い男の声が、遠くの焚き火から聞こえて来た。

 ハンナは立ち上がり、湖面に瞳を凝らす。

「……ニャ! あれはニャんですニャ!?」

 ふたりの視界の十数メートル先を、霧のようなものがゆっくりと横切って行く。

 うっすらと月明かりに白光りするそれは、竜の姿を形作りながら、音もなく水面を移動していた。

「船を出せ!」

 その美しさに見蕩れていたハンナを、周囲の喧噪が揺り起こす。

 テントの中で寝ていた者たちも、慌てて湖の周りに集まり始めていた。

「待て待て、そう慌てるな!」

 そんな彼らを諌めたのは、例の年配の兵士だった。

 船を水際へ出そうとしていた男たちが、一斉に手を止める。

「隊長! もたもたしてると消えちまいますよ!」

 部下の催促に、男はハァと溜め息を吐く。

「おまえらな、よく考えてみろ。どうやって霧を捕まえるつもりだ? それに、あれだって幻かもしれんのだぞ。夜中に湖へ落ちたら、命にかかわる。今夜はこれで仕舞いだ」

 隊長と呼ばれた男はそう言って、兵士たちを解散させた。

 なるほど、かなりの切れ者だ。これでは昼間の嘘がバレてしまうのも仕方がない。ハンナは妙に感心しながら、霧の竜を目で追い続ける。

 霧は次第に薄くなり、ついには湖面を漂う、不定の靄と化した。

「ハニャ……消えましたニャ……。やっぱり幻ですかニャ?」

「そうみたいね……もしかすると、私たちを誘き出す囮だったのかも……」

 ハンナは空を見上げる。

 満月が天頂に浮かび、日付が変わろうとしていることを告げていた。

「今夜はもう寝ましょう。ここの主、どうも一筋縄じゃいかないみたいね」

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