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縁談が人生で最も怖かった体験になった話

作者: 忍者の佐藤
掲載日:2026/05/03

 


 我がノヴァ男爵家は、王国の建国当初から存在する由緒正しい家柄だ。

 当時騎士だったご先祖様が功績を上げたとかで、爵位を賜ったのだと、彼の古びた日記に記されている。


 しかしそれは過去の栄光。

 父はお金よりプライドを優先するタイプの人間で、決して商売に手を出そうとしない。商売で利益を上げる貴族を見ては「貴族の誇りを忘れし者たち」だと嘆く。

 そういうマインドの人間が代々家を継いできた結果、我が家は片田舎の極貧貴族となっていた。


 木造のお屋敷を自分たちで直しながら住んでいる私たちには、社交界に繰り出す資金など無い。使用人は腰の曲がったおばあちゃんが二人。午前中しかいない。守衛は「昔すごかった自慢」を繰り返すおじいちゃんが一人。

 決して我が家は高齢者雇用を推進する福祉充実派とかではない。シンプルにお金が無いのだ。


 家族全員物持ちが良く、壊れれば修理する。古めかしい家具なども、手入れしながら大事に大事に使ってきた。私はずっとこの家に居るから気付かなかったけれど、以前他の貴族の家にお呼ばれした時は、自分の家が歴史的遺物に感じられたものだ。

「あの屋敷、幽霊が出るらしいぜ」と屋敷の前で騒いでいる子供たちを見たこともある。


 19歳になった私の結婚も楽ではない。貴族同士の結婚では、嫁側が持参金を用意しなければならない。

 けれどうちがそんなまとまったお金を用意するのは難しい。

 そんなお金も政治力も無いウチと結婚しようなどという物好きな貴族は皆無だった。


 それどころか、由緒正しい貴族であることで、私はこの後人生最大の恐怖体験に晒されることになる。




 ◆





 実は私にも好きな人が居る。いや、居たというべきなのだろうか。

 相手は王立学園に通っている時に親しくなった伯爵令息のジュストだ。……何故貧乏な私が王立学園に通えたかというと、「貴族たる者、無学ではいけない!」と見栄を張った父が、借金をしてまで私を入れてくれたのだ。



「セレナ、結婚しよう」と言われたのは卒業する年だ。願っても無い提案だった。

 しかしジュストが彼の両親に話したところ「家格が釣り合っていない」とお母様から猛反対されたらしい。家格もそうだが、私の学費で絶賛借金中のウチはまともな持参金が用意できない。

 一度、ジュストのお母様から手紙が届いたことがある。そこには「持参金も用意できないのにウチの息子と結婚したいだなんて、泥棒と同じです」的なことが書かれていた。


「駆け落ち」という選択肢が頭を過ることもあったけれど、直ぐに打ち消した。一人っ子である彼は伯爵家を継がねばならない。それを奪うということは、ジュストの人生も、そして伯爵家をも潰す行為に等しい。


 彼のことを考えるなら、私は自分の気持ちに蓋をするしかない。





 そんな時に来た縁談の話に、私は耳を疑った。

 何と相手はヴィンターフェルト侯爵家の令息。しかも家督継承権を持つ一人っ子だという。年齢が30を少し超えているところは気になるけれど、離婚歴などは無いらしい。


 おまけに「持参金は要らない。何なら祝い金としてまとまった金額をお支払いする」のだと先方は仰っているらしい。


「侯爵様の息子、マルチェロ殿は歴史学者で、大学にて教鞭を取られることもあるそうだ。研究に没頭し過ぎて婚期を逃してしまっただけだろう。これは中々の優良物件だぞ」



 普段、あんなに金稼ぎを毛嫌いしている父は饒舌に戦果を語るのだった。




 ◆




 縁談は滞りなく進み、ヴィンターフェルト侯爵家に私たちは招かれていた。初の顔合わせだ。

 私は屋敷の敷地に一歩足を踏み入れて、夢でも見ているのかと思った。巨大……いや、広大過ぎる。

 案内をしてくれた侯爵家の使用人によれば、今視界に入っている建物はもちろん、庭も湖も山も全部侯爵家の持ち物だというのだ。

 我が家がミニチュアハウスに見えるほどである。


 豪奢な応接室に通され、私は初めて侯爵子息と対面した。

「初めまして。セレナ・ノヴァと申します」

「は、初めまして……マルチェロ・ヴィンターフェルトと申します。きょ、今日は、よく、来てくださいました……」

 ぎこちなく礼を返した彼は非常に背の高い人だった。

 お腹が少し出ているのは気になったけれど、脂肪は顔には達していないようだ。


 それから私たちは当たり障りのない会話を繰り返した。

 あまり目線は合わない。マルチェロ様は返答に困ると目線をさまよわせ、横に座る侯爵様を見て助けを求めていた。

 ただ、お父様の情報通り、マルチェロ様は確かに博識だった。特に歴史については古代から現代の出来事まで、緻密に暗記している。

 王太子様の歴史学の教育係をしていたこともあると、彼の父である侯爵様が、自慢げに話していた。




 帰りの馬車で、「結婚しても良いかもしれない」と私は考えていた。確かに少し対人関係は苦手なようだけれど、欠点は誰にでもある。勿論私にも。


 多少の妥協は必要なのだ。そもそも私に次があるとは思えないのだから。




 けれど私はこの時、マルチェロ様が持つ重大な秘密を知る由も無かった。




 ◆




 次に彼と会ったのはウチの実家だった。

 あの巨大な屋敷に住んでいる彼だ。こんな小さくてボロボロの、屋敷と呼べるかも微妙な家を見たら嫌な顔をするのではと怯えていた。


 しかしマルチェロ様は特に気にした様子もなく、笑顔だった。笑顔がぎこちないのはこの前と同じだけれど。

「こんな古い家に招待してしまって申し訳ないですわ」

 と私が遠慮がちに言うと「いいえ」と即座に否定し

「か、格式のある、素敵なお屋敷だと思います。古いということは、その、れ、歴史があるということですから」

 と、もし歴史学者ではない貴族が言ったら、嫌味に聞こえそうなフォローをしてくれた。


 私たちは応接室で二人になった。

「我々のような老いぼれが居たら出来る話も出来んだろう。後は若いもの同士で話をしなさい」

 と言い、父親たちは出て行ってしまったからだ。




 さて、何の話をしようか。

 私は一度テーブルの上のカップに目を落とした。今日のために良い茶葉を買ってきた。けれど、この前侯爵家で出された紅茶と比べると、明らかに味が劣っているのが分かった。

 やはり付け焼刃で取り繕おうとしても無駄なのね。


 不意に視界が塞がれた。目の前に何かが突然出現したかのような感覚だった。手を伸ばせば届くほどの至近距離に、巨大な影が覆いかぶさってきている。


 それが何なのか気付いた時、私は言葉で表せないほどの恐怖を覚えた。

 マルチェロ様だ。

 さっきまで座っていたはず。

 彼は何も言わず、ずっと私の方を見下ろしている。


 突き刺すような、それでいてまとわりついてくる、気味の悪さが同居した禍々しい視線。


 瞬時に体温が奪われていく感覚。

 逃げなければ。私の頭がそう告げている。

 なのに足がすくんで動かない。

 呪いにかかったかのようだ。

「あ、そ……」


 もごもごと口ごもりながら、マルチェロ様はゆっくり、屈みこんでくる。

 私は叫ぶことも出来ず、生まれて初めて死を覚悟した。


「失礼します」

 ノックと共に使用人、ヒルダの声がした。

 その音と同時に身体が一気に呪縛から解放された。


「あら、どうしたのかしら」


 素早く身体を横にずらして立ち上がると、ドアまで駆け足に向かった。声は裏返っていたし半泣きになっていた。



 私は力いっぱいドアを開く。

「セレナお嬢様、お茶菓子を……どうしたのですか?」

 ヒルダは目をぱちくりさせた。私の様子がおかしいことに気付いたらしい。

「今部屋に入っちゃ駄目だから」

 私は小声で耳打ちする。

「へ? どうしてです?」

「いいから!」


 私は部屋を出る際、隙間からそっとマルチェロ様の様子を覗いてみた。

 しかし彼の姿が見えない。

 あれ、どこにいるんだろう。まさか窓から出たわけじゃないよね……。

 部屋全体を見回している時、奥の方で何かが動くのが見えた。


 目を凝らしてみた時の衝撃は、恐らく人生で一番のものだっただろう。あまりの衝撃で、その場に座り込みそうになってしまった。


 最初はテーブルに隠れてよく見えなかった。しかし、動いていたのは私が座っていたソファーの近くだ。

 そこにマルチェロ様が屈みこんで、ちょうど私の座っていた辺りを、撫でたり、匂いを嗅いだりしているのだ。


 身体の底から怖気と嫌悪感が同時に沸き上がる。

 無理だ。

 もう一秒たりとも彼と同じ空間で過ごせる自信が無い。



「お父様はどこ」

 私は震える声で言った。

「ダイニングで侯爵様とお話をしておられますが……」

「分かったわ。あなたも来て」


 私は小声で言うと、ヒルダに付き添われながらダイニングへ急いだ。




 ◆




 私は侯爵様と話している父を無理やり連れ出し、「絶対に結婚したくない」という意思を伝えた。

 お父様は驚き、そして渋ってもいた。

 この縁談は男爵家にとってまたとない機会である。父としても逃したくなかったのだろう。

 しかし私が必死に何度も何度も頼み込んでいると、ようやく「分かった。私の方からヴィンターフェルト侯に伝えておく」と承諾してくれた。

「お前は部屋に戻っていなさい」と言われたので、さっさと部屋に引き上げ、じっとベッドでぬいぐるみを抱き締めていた。何も無いとは思うけれど、部屋の前にはヒルダに待機してもらっておいた。


 やがて庭の方で話す声が聞こえてきた。カーテンの隙から覗うと、父とマルチェロ様が何やら話し込んでいる。

 マルチェロ様は何度も頭を下げるのだが、父は首を振り続けた。


 ようやく諦めたのか、マルチェロ様は遠目でも分かる程、がっくり肩を落とし、侯爵様と共に馬車へ乗り込んでいった。


 私はようやく安堵し、急いで父の元へ向かう。


「お父様、マルチェロ様と何を話しておられたのですか?」


 お父様は私の顔を見た後、複雑そうな顔をして、すぐに視線を逸らした。


「お前は知らなくて良い。いや、知る必要が無い」


 私はお父様の何かを含んだような言い方が気になった。

 ともあれ、これでマルチェロ様との関係は終わった。もう二度と会うことは無いだろうと、呑気に考えていた。




 ◆




 数週間後、私は一人でお留守番していた。


 お父様は農地の視察に出ており、お母様は孤児院への訪問だった。ちなみに兄も居るのだが、彼は「武功を上げて金持ちになるのだ!」と息巻いて騎士団に入ったきり、数年会っていない。


 昼過ぎの今、屋敷に居るのは私だけのはずだった。

 ところが庭で何か物音がする。

 ガチャガチャと食器の音だ。


 私は窓の外に目をやった。どんよりと曇っている。昼間だというのに、まるで夜明け前のような暗さだった。

 胸騒ぎがした。不安が全身に広がって行くようだ。


 私は外に出、屋敷の角から音の方を、恐る恐る覗いた。

 老女が一人、背を屈めて食器を洗っている。使用人のヒルダだった。


 ホッとすると同時におかしなことに気付く。

「ヒルダ、あなたはもう帰って良い時間よ」

 近づきながら声を掛けると、彼女は困ったような笑顔になる。


「ええ。ですが私が帰りますと、お嬢様が一人になってしまいますので……」

「もう、私を何歳だと思っているの。心配ないわよ」


 彼女からしたら、私はいつまでも小さな女の子に見えるのかもしれない。でももう19歳だ。留守番くらい一人で出来る。

 それにこんな片田舎のぼろ屋敷に忍び込む泥棒など居るとは思えなかった。


 私は渋っているヒルダを帰らせ、応接室で本を読んでいた。

 曇っていて暗いのだが、この部屋は一番外の光を取り込めるのだ。


 小難しい東方の歴史書だったためか、それとも昼下がりだったためか、いつの間にかウトウトしていた。

 そのため廊下で鳴る足音を、最初夢なのか現実なのか、分からない状態で聞いていた。

 コツ、コツ、コツと、ゆっくりと、近付いてくる。


 ヒルダかな。

 彼女は心配性だから、やっぱり見守りに来てくれたのだろう。



 扉の開く「ギッ」という音。

 続いて靴音。

 人が入ってくる気配。


「ヒルダ? もう、心配要らないって……」

 顔を上げた途端、入室した人物のシルエットが見えた。


 水中から空気を求めて突き上がるかのように、私の脳は一気に覚醒していた。


 明らかにヒルダの物でも、家族の誰のものでもない、異物のシルエット。

 背の高い男性。


 薄暗いのに、目がギラギラと白く光ってこちらを見ている。手には棒状の物を持っている。

 それが友好的な人物でないのは明らかだった



 息が止まるほどの恐怖だった。

 身体が芯から冷たい。それでいて汗が溢れて止まらない。


 この部屋に出入り口は一つしかない。壁のように立ちふさがっていた男がゆっくり、ゆっくり私に近付き始めた。


 顔の輪郭がはっきり見えた。

 私は彼を知っていた。

 会ったばかりで忘れようもない。

 けれど、その事実は全く私の恐怖を緩和してくれなかった。


「ま、マルチェロ様……?」

 私の声に、彼は歯を剝き出して笑った。暗い部屋で異常なまでに浮いて見える。吐き気がするほどの白さだ。


「こ、こんにちは、せ、セレナ嬢」

 言いながらも彼は近付いてくる。


「来ないで!」

 私は声を振り絞った。

 一瞬、怯んだように立ちすくむ。けれど、やはり近付いてくる。


「あ、あまり大きな声を出さないで……男爵様には断られてしまいました。もうセレナ嬢に頼むしか、無いのです」

「どうして勝手に入って来るのですか!」

 私は再び大声を張り上げた。

「す、すみません。でも、も、もう我慢できないのです。ぼ、僕のお願い、聞いて下さい」



 彼の行動も、言動も、全てがおぞましかった。

 手に持つ棒がギラリと光った。金属だ。


「い、嫌……!」


 身体全体が震えている。

 彼が近付くたび震えは強くなる。

 涙が堰を切って溢れる。

 脳は明瞭なのに、何をすべきか混乱していて、様々な思考が湧いては流れる。

 誰か。誰か来て!


 しかし私の願いは虚しく、誰も駆けつけては来ない。


「さあ、セレナ様……これを……」


 マルチェロ様は金属の棒を振り上げる。



 どうして、どうしてこんなことになってしまったの?

 ヒルダを帰らせたから? それとも、貧乏なのに、身の丈の合わない相手との婚約を望んでしまったから? 全部私のせい?



 その時、マルチェロ様の身体が大きく動いた。

 まるで大波のように迫ってくる。


 ああ、終わる。


 私は悲鳴を上げ、目を逸らした。
















 ……。

 …………。

 ………………。


 あれ。



 目を開けてみたが、マルチェロ様は目の前に居ない。

 いや、居た。

 私の足元に座っていた。

 というか、身体全体を丸くして、私に向って頭を下げている。

 こ、これは……!

 さっき本で読んでいた時に見た、東洋の謝罪スタイル「DOGEZA」なのでは?




「お、お願いします! お願いしますセレナ様!」


 マルチェロ様はどもった声を精いっぱい張り上げている。

 その時初めて、私はまだ彼の要求を聞いていないことに気付いた。



「えっと、マルチェロ様のお願いって、何なのですか?」


 その言葉を待っていたかのように、マルチェロ様は素早く顔を上げた。少年のようにキラキラと目を輝かせている。


「あなた様が座っていらっしゃるそのソファー、僕にお売りください!」


 マルチェロ様は再び頭を下げた。

 彼が握っていた金属が、金の延べ棒だと気付いたのはこの時だった。




 ◆




 その後、私の悲鳴を聞いて駆けつけてきた守衛によって、マルチェロ様は取り押さえられた。

 そこで分かったのは次のような事実だ。


 彼は病的なまでのアンティークマニアだった。

 侯爵家の潤沢な資金力を使い、国中を回って数々の品を買い漁っていたという。しかし、彼が最も欲しいと願っていた「ドミニク王のソファー」だけはどうしても見つからなかった。

 それは初代国王が名工に作らせたといわれる一品物で、彼が昼寝をするとき、いつも使っていたとされる。

 しかし現在の所在は不明で、長らく国外に流出してしまったのでは? と言われていた。


 しかし、それは国内にあった。よりによって我が男爵家に。

 詳しい理由は分からないけれど、うちの初代男爵は騎士だった時、ドミニク王の護衛を務めていたこともあると日記に書いてあった。

 爵位も貰ったくらいだし、気に入られて頂戴したのでは? という説が濃厚だ。



 話を戻すと、


 マルチェロ様は一度目ウチに来た時、ソファーを一目見て、目が飛び出るほど驚いたそうだ。何処を探しても無くて諦めていた物が、片田舎の古屋敷にあったのだから、そりゃ驚くだろう。

 私が異常な目つきだと感じたのはこの時だ。


 その後私が座っていた辺りを撫でていたのはたまたまで、実際は手触りなどで本物かどうか確認していたようだ。


 結果、本物の可能性が高いと気付き、マルチェロ様は父に交渉を持ちかけた。我が貧乏男爵家からすれば、卒倒するほどの高額オファーだったらしい。



 ところが父は「初代王から賜ったであろう物を、金で売り渡すわけにはいきません」と断った。マルチェロ様は諦めきれず、その後何度かうウチ宛てに手紙を送ったようだが、父の態度は頑なだった。

 まあ、こんなことばかりしているから貧乏なのだが。



 マルチェロ様も「じゃあ諦めよっか」とはならなかった。

 ソファーは長年探し求めてきた悲願。どんな手段を使ってでも手に入れたかった。そう、どんな手段を使ってでも。


 だから彼は両親の居ないうちに忍び込んで、私に交渉を試みたのだ。娘の私なら売ってくれるかもと思ったのだろう。

 当然だが許される行為ではない。そもそも人の家に勝手に踏み込んでくるということ自体が、法も常識も逸している。


 それに、マルチェロ様にその気は無かったかも知れないが、か弱い令嬢(自己申告)を狙って交渉を持ちかけようとするなんて、脅し以外の何物でもない。


「い、いけないとはわかっていたんですが、もう身体が止められなかったのです。その、こ、怖がらせてしまったのなら、本当に申し訳ありません……」



 マルチェロ様は連行される前、そう言って頭を下げた。

 こうして彼は治安機関に身柄を引き渡され、勾留されることとなったが、暫くして釈放された。



 侯爵家との縁談は完全に立ち消えとなり、男爵家には賠償金が払われた。


 一人息子に甘い侯爵様も、彼なりに今回ばかりは事態を重く見たようだ。

 無期限で、侯爵家屋敷の離れにある塔に、マルチェロ様は幽閉されることになったと聞いている。




 ◆




 その後。

 私はずっと好きだった伯爵子息であるジュストと結婚することになった。

 持参金をどうしたのかって?

 実は、あのソファーをマルチェロ様に売却したのだ。


 私は「絶対にこのソファーは手放すべきです」と父に強く言った。



 マルチェロ様は今は幽閉されているけれど、ここにソファーがある限り、何らかの手段で手に入れようとすると私の直感が告げていた。

 ソファーを見るあの目は普通ではない。まさに異常。狂気的だった。


 それならソファーのことで一喜一憂するより、いっそのこと高値をふっかけて売り払ってしまった方が良い。



 というわけで両家の間で取引が行われた。実際に成立した金額は、マルチェロ様が提示した額の3倍だ。それでも彼は全く躊躇うことなく支払った。


 直接見に行ったわけでは無いけれど、マルチェロ様の喜びようは凄まじいものだったらしい。彼の代理で訪れていた使者がそう話していた。



「『セレナ嬢には感謝してもし切れません。お金の他にも私に出来ることがあれば何でも仰って下さい』と我が主人は仰っています」

 マルチェロ様の使者が言うので、

「では二度と私の前に顔を見せないで下さい」

 と笑顔で返しておいた。


 まあ、こんなこと言わなくても二度と彼と会うことは無いだろう。あの人はアンティークに囲まれて生活していれば、きっと幽閉されていても満足なのだ。



 うちとしても、限界ギリギリだった屋敷をようやくリフォームすることが出来た。「建て替えた方が良いのでは?」と父に言ったのだが「まだ住める」という。貧乏性ここに極まれり。





 ジュストとは結婚出来たけれど、良いことばかりではない。

 彼のお母様はあまり良い顔はしなかった。

 けれど、何か揉めそうになると、必ずジュストは私の味方をしてくれるし、庇ってくれる。


 結婚生活はこれからも大変なことがあるし、幸せ一色というわけにはいかないけれど、彼と一緒なら乗り越えられると思う。そう思える男性と結婚できたことは本当に幸運だった。


 そのことだけは、ソファーを買ってくれたマルチェロ様に感謝している。

 ……ほんの少しだけね。







 おわり


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― 新着の感想 ―
結婚生活が薔薇色一色じゃないのがリアル。 パパは売買を断られたマニアの怖さを分かって無かったんだろうな。そんな相手からの結婚話に不審を抱かないんだから金儲けに向いてない。
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