4
エルナが王都を追放されてから、わずか一週間。
王宮「サンクチュアリ・パレス」の空気は、目に見えて淀んでいた。
「……何だ、この異臭は。一体どこから漂ってきている!」
第一王子ジュリアンは、執務室で苛立たしげに叫んだ。
数日前から、王宮の至る所で「下水の逆流」や「カビの異常発生」が報告されていた。本来、王宮には強力な浄化魔法の結界魔法が張り巡らされており、汚れや腐敗とは無縁のはずだった。
ジュリアンの足元にある、かつては鏡のように磨き上げられていた高級な絨毯は、今や湿気を吸って不気味な黒ずみを浮かせている。
「も、申し訳ございません。マリアベル聖女様が昨日、広域浄化魔法をかけられたのですが……一時的に香りは良くなるものの、数時間後にはさらに強い悪臭が……」
侍従の声は震えていた。
そう、マリアベルの【極光の審判】は、目に見える不浄を強力な光で焼き払う「攻撃」に近い魔法だ。しかし、それは「汚れの根本」を取り除くものではない。
彼女が光を放てば放つほど、焼き残ったカスが「魔力の煤」となり、見えない場所に蓄積されていく。エルナが十年間、細心の注意を払って「拭き取って」きた強力な呪いの残滓が、マリアベルの中途半端な威力の荒っぽい魔法によって、むしろ活性化されていたのだ。
「ああ、ジュリアン様! 今日も素敵ですわ!」
バタン、と音を立てて部屋に入ってきたマリアベルを見て、ジュリアンは顔をしかめた。
彼女の身に纏うドレスは相変わらず豪華だが、近くで見ると裾の金糸が変色し、泥を被ったような色味になっている。何より、彼女自身から漂う、甘ったるい香水と「腐敗臭」が混ざったような独特の匂いが、ジュリアンの鼻を突いた。
「マリアベル……昨日も浄化を行ったと言ったな? なぜ厨房の食料が半日で腐る。なぜ騎士団の鎧が錆びついて動かなくなる」
「あら、それはきっと、運搬する平民たちの心が汚れているからですわ! 私の光は完璧ですもの。それよりジュリアン様、今夜の晩餐会には新しいドレスを新調しなければなりませんの。今のドレス、なぜかすぐにシワが寄ってしまって……」
マリアベルは、自分の能力の限界に気づくどころか、それを周囲のせいにし続けていた。
ジュリアンは彼女の眩しいほどの光を直視し、初めて「不快感」を覚えた。
エルナがいた頃、王宮の空気はもっと……そう、水のように澄んでいて、存在すら忘れるほど自然だったはずだ。
「……掃除女一人がいなくなっただけで、これほどとは」
ジュリアンの脳裏に、冷ややかな目で自分を見つめて去ったエルナの姿がよぎった。だが、彼はすぐにその思考を振り払う。
「いや、ありえん。あれはただの雑用係だ。この不調は一時的なものに過ぎない。他になにか別の原因があるはずだ。……おい、魔導技師たちに言え。浄化装置の出力を最大にしろとな!」
その判断が、王宮の寿命をさらに縮めることになるとも知らずに。
「概念の汚れ」を無視して出力を上げれば、装置自体が自重に耐えかねて崩壊する。エルナがいない今の王国は、エンジンコアが壊れたまま加速する泥船のようだった。
────
王都が目に見えぬ「腐敗」に怯え始めた頃。
エルナは、極北の「ノルトエンデ城」で、人生最大のやる気に満ち溢れていた。
「……すごいわ。ここ、お宝の山じゃない!」
エルナが立っているのは、城の地下にある巨大な図書庫だ。
そこには数百年分の埃と、歴代の辺境伯が引き受けてきた「世界の歪み」が物理的な煤となって、棚や床を覆い尽くしていた。
普通の人間なら足を踏み入れた瞬間に呼吸困難に陥るような空間。だが、エルナにとっては、磨けば磨くほど輝きを取り戻す「磨きがいのある聖域」に見えた。
「さて、始めましょうか。【概念清掃・広域展開――『心呼吸の庭』】」
エルナが手に持った特製のハタキを軽く振る。
その瞬間、彼女を中心に真っ白な光の波紋が広がった。
バサバサバサッ、と音が聞こえるような勢いで、本棚に積もった「時間という名の塵」が吸い取られていく。
ただの掃除ではない。
エルナの魔法は、紙の繊維一本一本に染み込んだ「劣化」を取り除き、書かれたインクの退色を食い止め、本が持つ「新品だった頃の記憶」を呼び覚ましていく。
数分後。
真っ暗でカビ臭かった図書庫は、まるで今朝建てられたばかりのような、爽やかな紙と木の香りが漂う空間へと変貌した。
「……ふう。これで一区切りね」
エルナが額の汗を拭うと、背後で「……信じられん」という呻き声がした。
振り返ると、そこにはアルフレート辺境伯が立っていた。
彼は驚愕のあまり、手に持っていた書類を落としそうになっている。
「……貴様、一体何をした。この図書庫は、呪いの濃度が強すぎて、私以外は一分と持たないはずの場所だぞ」
「ええ、確かに少し手強かったです。でも、この子たちが『重い、苦しい』って泣いていたので。……見てください、閣下。この年代記、こんなに綺麗な装丁だったんですよ」




