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(まずは、この車軸の『磨耗』という汚れを払いましょう)


 エルナが馬車の床にそっと手を触れる。

 彼女の意識が、馬車という構造体に浸透していく。

 長年の旅で蓄積された金属の疲労。木材の乾燥による細かな亀裂。

 それらを「汚れ」と定義し、彼女の力【概念清掃】が真価を発揮する。


 ――サラサラと、目に見えない光の塵が馬車から舞い上がった。


 その瞬間、ガタガタと激しかった振動が、ピタリと止まった。

 まるで氷の上を滑るかのような、滑らかな乗り心地に変わる。


「お、おい!? な、なんだ!? 馬車が急に軽くなったぞ!?」


 御者の驚愕の声を無視して、エルナは次に車内を「磨いて」いく。

 破れたシートの革に指を滑らせれば、まるで時間が巻き戻ったかのように艶が戻り、ふかふかの弾力が蘇る。

 隙間風が入る窓枠を撫でれば、歪みが矯正され、完全な密閉状態となった。

 最後に、空気中の「淀み」をひと拭き。


 狭くて埃っぽかったはずの車内は、一瞬にして最高級ホテルのスイートルームのような、清廉で澄んだ空気に満たされた。


「……よし。これでゆっくり眠れますね」


 エルナは満足げに頷き、新築のような香りが漂う座席に深く身を沈めた。

 外は氷点下の雪国へと差し掛かっていたが、エルナの周囲だけは、彼女が「最適化」した完璧な温度と湿度が保たれていた。


 追放という絶望の旅路のはずが、彼女にとっては「自分だけの空間を自分好みに磨き上げる」という、至福のメンテナンス・タイムに変わっていたのである。


────


 数日後。

 エルナを乗せた「世界で最も快適なオンボロ馬車」は、ついに目的地の北端、辺境伯領の城門へと辿り着いた。


 そこは、王都の人間が「死の地」と呼ぶに相応しい光景だった。

 一年中吹雪が吹き荒れ、視界は白一色。

 そびえ立つ漆黒の城――通称「氷帝の檻」は、何層にも重なる強力な結界によって、外部の魔獣を阻んでいる。


 だが、エルナの目には、その城が別の意味で「恐ろしい」ものに見えた。


(……なんてこと。あのお城、真っ黒じゃない)


 それは色の話ではない。

 城全体が、耐え難いほどの「絶望」と「呪い」、そして物理的な「汚れ」の概念に塗り潰されていた。

 門をくぐるだけで、普通の人間なら精神を病んでしまうほどの重圧。


 その城の主こそが、エルナの新しい雇い主となるはずの男。

 「氷の死神」こと、アルフレート・ノルトエンデ辺境伯だった。


 城の謁見の間。

 暖炉に火は灯っているものの、部屋の中は骨の髄まで凍るような冷気に支配されていた。

 正面の玉座に座るのは、夜の闇を溶かしたような漆黒の髪と、鋭い氷晶のような瞳を持つ男性。

 アルフレートは、這いつくばるようにして自分を見上げるエルナを一瞥し、低く、枯れた声で告げた。


「……王都から、また生贄が来たか。ジュリアンの犬が」


 彼の首筋には、不気味な黒い紋様が血管のように浮き出ていた。

 それは、この地を襲う「国の歪み」を一族で引き受けてきた証――『蝕の呪い』

 彼は日々、この呪いがもたらす激痛と精神の汚染に耐えていた。彼にとって世界は、泥水の中で溺れているような、不潔で、耐え難い場所でしかない。


「聖女エルナ・ラインフェルトと申します。今日からこちらでお世話になります、閣下」


 エルナは立ち上がり、丁寧な礼をした。

 アルフレートは鼻で笑う。


「聖女だと? 笑わせるな。その綺麗なドレスも、あと三日もすればここの毒気に当てられてボロ雑巾になる。私の顔すら、呪いの澱みで直視できなくなるだろう。……死にたくば勝手にしろ。ここは地獄だ」


 アルフレートが冷たく突き放し、立ち去ろうとしたその時だった。

 エルナは彼の横を通り過ぎる際、ごく自然な動作で、シュッと、彼の肩のあたりを「クロス」で拭った。


「――!? 貴様、何を……」


 アルフレートが激昂しかけ、言葉を失った。

 

 消えた。

 

 彼を二十数年間、一秒たりとも休まず苛んできた、あの「焼け付くような痛み」と「不快な重圧」が。

 彼女が拭った肩の周辺だけ、まるでそこだけ世界が切り取られたかのように、驚くほど「軽く」なっていた。


「……汚れがひどかったので、つい。すみません、職業病なんです」


 エルナは平然とした顔で、手元のクロスをパタパタと振った。

 クロスの端が、一瞬だけ禍々しい黒色に染まり、すぐにエルナの魔力によって「清算」されて消える。


「……お前。今、何をした」


 アルフレートが、獲物を狙う獣のような鋭さでエルナを凝視した。

 その瞳には、恐怖ではなく、今まで一度も見せたことのない「狂おしいほどの渇望」が宿っている。


 エルナは小首を傾げ、この城に来て一番の、満面の笑みで答えた。


「ただの、お掃除です。閣下、このお城……磨きがいがあって、私、とってもワクワクしてきました!」


 この瞬間。

 王国の破滅へのカウントダウンと、辺境における「究極の溺愛」への幕が、同時に上がったのである。

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