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エルナ・ラインフェルトが王都を去った翌朝。
第一王子ジュリアンは、最高級のシルクで設えられた天蓋付きのベッドで目を覚ました。
いつも通り、不自由のない一日が始まるはずだった。だがしかし、彼がシーツから身を起こした瞬間、不快な音が耳に届いた。
「……? な、何の音だ」
ミシリ、と。
それは、築数百年を誇る王宮の構造体が、まるで見えない重圧に耐えかねて悲鳴を上げているような音だった。
ジュリアンは眉をひそめながら、寝室に控えていた侍従を呼んだ。
「おい、部屋が少し埃っぽくないか? 昨日の掃除はどうした」
「申し訳ございません、殿下。入念に行ったはずなのですが……今朝確認いたしましたところ、なぜか窓枠に薄っすらと煤が溜まっておりまして」
侍従が慌てて膝をつく。
ジュリアンは鼻を鳴らし、洗面台へと向かった。
だが、そこで彼は二度目の違和感に襲われる。
蛇口をひねって出てきた水が、わずかに濁っていたのだ。
「……おい貴様、これはどういうことだ。王宮の浄化魔法装置はどうした!」
「そ、それが……魔導技師たちが点検したのですが、装置自体に故障は見当たらないのです。ただ、フィルターの『劣化』が異常な速度で進んでいるとのことで……。昨日まで新品同様だったはずのドワーフ結晶が、まるで百年使い古したかのように煤けているのです」
ジュリアンは苛立たしげに顔を洗った。
水が肌に触れた瞬間、いつもなら感じるはずの「清涼感」がまったくない。それどころか、肌がわずかに突っ張るような、不快な感覚が残った。
朝食のテーブルでも、異変は続いた。
ベテランシェフが焼き上げたはずの最高級のパンは、どこかパサついていて風味が薄い。淹れたての紅茶も、香りが一瞬で飛び、妙にえぐみを感じる。
「マリアベル、お前はどう思う。この王宮、何やら空気が淀んでいないか?」
向かいの席に座るマリアベルに問いかける。
彼女は新しい聖女として、今日も眩いばかりの純白のドレスを纏っていた。だが、そのドレスの裾が、わずかに、本当にわずかにだが「ほつれて」いるのを、ジュリアンは見逃さなかった。
「ふふ、ジュリアン様、気にしすぎですわ。きっと、あの『掃除女』がいなくなったせいで、使用人たちが少し浮足立っているだけでしょう。私がお祈りを捧げれば、すぐに王宮は私の光で満たされますわ」
マリアベルは自信満々に笑い、傍らに置かれた「王国の守護石」に手をかざした。
彼女が【極光の審判】の魔力を流し込むと、石は確かに、まばゆい黄金の光を放った。
「見てください。私の光こそが、この国を導く聖なる輝き。あんな暗気臭いエルナお姉様がちまちまと掃除していた頃より、ずっと華やかでしょう?」
「……ああ、そうだな。お前の言う通りだ」
ジュリアンは自分を納得させるように頷いた。
だが、彼らは気づいていなかった。
マリアベルの放つ強烈な光が、かえって影を濃くしていることに。
彼女の魔法は「浄化」ではなく「発光」に過ぎない。汚れを落とすのではなく、上から眩しいペンキで塗りつぶしているようなものだ。
その下では、エルナという抑止力を失った「劣化」という名の呪いの怪物が、静かに、そして確実に王宮の土台を食い荒らし始めていた。
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一方その頃。
追放されたエルナは、王都から遥か北を目指すオンボロの乗合馬車に揺られていた。
公爵令嬢という身分を捨て、最低限の着替えと掃除用具だけを詰め込んだトランクを抱えた彼女の姿は、どこからどう見ても、ただの貧乏な旅人にしか見えない。
「お嬢さん、悪いな。この馬車、ガタが来ててよ。ケツが痛むだろうが、我慢してくれ」
御者の老人が、申し訳なさそうに声をかけてくる。
確かに、馬車はひどい状態だった。車輪は回るたびに嫌な音を立て、座席のクッションは潰れ、窓からは隙間風が容赦なく吹き込んでくる。
だが、エルナは微笑んで言った。
「いいえ、平気よ。でも少しだけ、お手入れをしてもいいかしら?」
「お手入れ? ああ、まあ勝手にしてくれて構わない。だが……そんな布で拭いたところで、このおんボロ馬車は、どうにもならんよ」
エルナは「ふふ」と小さく笑うと、トランクからお気に入りの布を取り出した。
それは魔力を通しやすい特殊な糸で編まれた、エルナお手製の「概念清掃用クロス」だった。




