第1話:見慣れた光景
「っ……!」
息が詰まり、俺は勢いよく上体を起こした。
脳だけが急激に覚醒し、心臓は戦場のど真ん中に取り残されたまま激しく跳ね続けている。
汗が背中を伝い、シーツが湿っていた。
「……なんだよ、これ。夢……だよな?」
枕元のスマホを取って画面を見る。
午前7時00分。
たった今見ていた景色は霧の向こうへ消えたはずなのに、胸の奥だけが焦げたように熱く疼いている。
その時だった。廊下からドタドタと足音が近づき――
バンッ。
「威吹戯?起きてる?朝ごはんできてるから早く食べてー」
一方的に告げると、義理の姉、進藤朱璃は強引にドアを閉めた。
「……ノックぐらいしろよ」
愚痴りつつ起き上がった瞬間、ぞくり、と背筋を撫でる感覚があった。
この感覚、前にもあった。
デジャブ。
いや、それだけじゃない。何かを「繰り返している」かのような、薄気味悪い違和感。
「……まあ、気のせいだろ」
寝起きでまだ寝ぼけているのかもしれない。
そう自分に言い聞かせながら制服に着替え、リビングの方へ向かった。
キッチンでは朱璃がコーヒーを淹れていた。
朱璃が料理にまったく興味がないのは家族なら誰でも知っているが、コーヒーだけは異様なまでにこだわる。
その腕前は素人の域を超えており、もはや趣味というより執念に近い。
「ご飯先食べてていいよー」
「ん、わかった」
食卓にはトーストと目玉焼きが並んでいた。朱璃の最低限生きるための食事だ。
味はいたって普通だが、これが彼女の限界だ。
普段は俺がご飯を作るが、今日は起きるのが遅くなったせいで先に作られてしまったらしい。
ニュースを見ながら朝食を取っていると、目の前に香り高い湯気を立てたコーヒーが置かれた。
「ほいお待ち。朱璃特製コーヒーでございます」
「ただの市販品だろ?」
「うるさいなぁ。私が淹れたら別物になるんだから」
実際、その通りだ。
豆は安物でも、朱璃の手にかかれば極上の一杯に仕上がる。
この味に慣れたせいで、俺までコーヒーにハマってしまった。
今日の香りも、やたらと心を落ち着かせる。
先の不穏な景色の余韻を誤魔化すには十分だった。
「そういえば私、今日から出張だから、しばらく家空けるね」
「急すぎじゃね?いつ帰ってくるんだよ」
「未定、大口の案件でねー」
「今回は何の案件?」
「んー企業秘密」
朱璃は自分の仕事について一切話してくれない。
友人にも。家族にも。
「またそれかよ。俺にぐらい教えてくれてもいいだろ?」
「しょうがないなー、今回の案件が終わったら少し教えてあげるよ」
「約束だからな?」
本当は今すぐにでも問い詰めたい。
朱璃の仕事には、「匂い」がある。
人には言えない、深いところに足を踏み入れた者の匂い。
それがあるから、より気になってしまう。
朱璃と会話をしながら、ふと時計を見ると時刻は8時前になっていた。
「やベっ、そろそろ学校行かないと」
「はいはい、青春してらっしゃい」
「余計なお世話だ」
軽口を返し、俺は家を出た。
玄関を開けると、春の朝日が目を刺した。
まだ肌寒いが、眠気の残る体にはちょうどいい刺激だ。
雲ひとつない空。
何度も見てきたいつもの朝だった。
学校までは徒歩数十分。
何度も通った道。
何も変わらない景色。
いつも通りの日常。
──本来なら。
校門をくぐると、新学期の独特なざわつきが耳に入った。
だが活気というより、昨日の続きをそのまま再生しているかのような、乾いた騒音だった。
2年B組。
俺のクラス。
廊下の匂いも、教室の照明の白さも、黒板に残ったチョークの粉も――全部いつも通り。
教室に入った瞬間、毎朝のざわめきが耳を打った。
「よっ!威吹戯。相変わらず眠そうだな」
「まあな」
クラスメイトが軽く声をかけてくる。
内容も同じ、返事も同じ。
まるで台本があるかのようなやりとり。
ホームルームが始まり、担任が教室に入る。
新学期の挨拶。
年間予定の説明。
黒板に書かれるクラス目標。
(この感じ……前にもあったか?)
いや、間違いなく今初めて見た景色だ。
去年とそっくりだからじゃない。
もっと前から知っていたような、胸がざわめく感覚。
(俺……何を忘れてるんだ)
昼休み。
購買のパンをかじりながら、クラスの雑談に耳を傾ける。
恋バナ、部活、先生の愚痴。
全部どこかで聞いたことがある話ばかりで、頭の中が鈍くなる。
退屈は嫌いじゃない。
けれど、今日に限っては退屈すら“不自然”に思えていた。
そして放課後。
チャイムが鳴り響くと同時に、教室の空気が一気に緩む。
友達同士で帰る者、部活へ向かう者、寄り道の相談をする者。
みんないつも通りの世界を疑いもせず歩き始める。
そんななか、俺だけがどこかに取り残されたような気分だった。
(……なんなんだ、この違和感)
きっといつかわかるだろう。今は考えていてもしょうがない。
俺は帰り支度をし、教室を出た。
しかし、違和感の正体は案外すぐ理解することとなる。
帰り道を歩いていると。
「なんだ?猫?」
1匹の白い猫が、道路の脇から俺をじっと見ていた。
その視線が意思の塊のように重い。
こいつ、ただの猫じゃない。
「お前、まさか……」
気づけば俺は声をかけていた。
すると猫は尻尾を揺らし、まっすぐ歩き出す。
まるで「ついて来い」と言うかのように。
行かなきゃ……
行く理由なんてないのに。
気づいたら足が勝手に動いた。
しばらくついていくと、猫は小さな路地裏へと姿を消す。
夕焼けが落ち、影が濃くなる時間帯。
そこに何かが潜んでいてもおかしくない雰囲気だった。
「なんで路地裏に……?」
そんな事を考えていた時。
カンッッ!!
金属と金属が叩き合ったような激しい音が、狭い路地の奥から響き渡った。
「なんだ!?」
心臓が掴まれるような痛み。
頭が「行くな」と叫び、身体は「行け」と走り出す。
どちらも俺自身なのが気持ち悪い。
路地の奥に辿り着いた瞬間、俺は息を呑んだ。
銀髪の少女が、血の海の中で倒れていた。
胸元には鋭い爪痕のような傷。
浅い呼吸。
死の匂い。
その周囲には、三つの影。
それらは形も境界も曖昧で、ただ深い闇の塊が立っているだけだった。
「救急車……!!」
救急車を呼ぼうとスマホに手をかけた瞬間、影の1つが少女に刃を向け、息の根を止めようとしていた。
「おい、やめろ……っ!」
少女を庇おうと右手を伸ばした俺に、刃の殺気が迫る。
それは一瞬だった
ズバァァンッ!!
世界が赤く弾けた。
「……え……?」
さっきまで少女に向けて伸ばしていたはずの右腕がない。
肘から先が綺麗に消えていた。
残った断面から血が荒れ狂うように噴き出し、地面を染める。
「うああっ……あぁっ……!」
考えるより先に痛みが襲い、理解が追いつかない。
未知の恐怖との遭遇で、自分の顔が歪んでいくのが分かる。
影たちは音もなく動き、闇の隙間に吸い込まれるように消えていく。
意識が消えかける中、少女の瞳が、薄く開いて俺を見てきた。
その瞳は猫と同じ金色だった。
「ようやく……出会えたのに……」
少女が何か言ってる気がするが、最早理解する事はできない。
世界が遠のいていく。
血の匂いが濃くなり、視界は暗黒へ沈む。
───そして、意識は途切れた。




