雨の午後、君と
二十五歳のOL、綾は雨の降る夕暮れにアパートへ帰宅する。鍵を開ける手が震えるのは、恋人・遥の存在を思うから。
雨音に包まれた小さな部屋で、二人は静かな幸せを紡いでいく
「ただいま」玄関の鍵を回すたび、指先がほんの少し震える。
外の雨が傘を叩く音が、耳の奥で聞こえていた。
濡れた靴を靴箱の上で振るい落として、廊下を抜ける。
リビングに入った瞬間、クリームシチューのやさしい匂いが胸の中に広がった。
半年が過ぎても、飽きなくて幸せな場所がここにあった。
遥はエプロンを結んで、鍋をゆっくりかき混ぜている。黒い髪が肩の曲線に沿って落ち、白い飛沫が頬に小さく貼りついていた。
こういうところが昔から変わらない。
私の足音に、ようやく顔を上げる。
「おかえり、綾。遅かったね。残業?」
「うん、ちょっとね。会議が長引いちゃって」
コートをハンガーに滑らせ、背中からそっと寄りかかる。
細い肩は思ったより芯があって、体重を預けると、火の熱が布越しに伝わった。
「熱いよ、綾。火傷するよ?」
「だって癒されるし」
「火傷したら心配するから……ね」
振り向いた目が、笑う時だけ柔らかくなる。指先で頬をそっと拭って、ついそのまま顔が近づいた。
軽く触れるだけのキス。ミルクみたいな甘さがして、雨の冷たさが、表面からふわっと剥がれていく。
「もう、夕飯前なのに」
言葉は照れてるのに、腕は私の腰を捕らえて、離さない。む
しろ強く引き寄せて、耳のすぐそばで囁く。
「綾の匂い。雨の匂いがする。好き」
「だって、外は雨降ってるんだもん」
並んで立って、まな板の前に並ぶ。包丁の刃が野菜を刻む音が、窓に散る雨粒の音と混ざる。
「もっと細かく切って。綾のは雑」
「大丈夫だって、食べたら関係ないでしょ」
肩を小さくつつくと、遥は笑って、鍋の蓋を少しだけずらす。いつものやり取り。
決まりきってるのに、毎回すこしずつ違う。
会社では上司の小言と、同僚の噂話が空気みたいに重くて、息継ぎのタイミングを間違える。
ここに帰る理由は、味より先に、こういう瞬間だ。
テーブルに並んだのは、遥の自信作。パンにソースを吸わせ、熱いスープをそっとすする。
向かいの視線が、湯気の隙間から真っ直ぐに伸びてくる。
「どう? 今日のは、いつもよりクリーミー」
「最高。毎日これがいい」
遥が作ってくれるものだったらなんでもいいんだけどね。
そう言おうとしたら、結局言うのはやめた。
変な風に伝わったら嫌だしね。
テーブルの上で手を握る。指の温度が、器より長く残る。
食後、ソファに並んで落ち着く。雨は本降りになって、窓ガラスの表面を少し乱暴に叩く。
本降りになる前に帰宅できて本当に助かった。
テレビはついているけど、音は壁の向こうに置き忘れてきたみたいに遠い。遥が私の膝に頭を乗せる。
自然に手が動いて、髪を撫でる。
柔らかい黒が指に一房ずつ絡んで、すぐほどけた。
そのたびに穏やかな寝息が浅く上下する。
いつの間にか声が聞こえないと思ったら寝ていたみたい。
まぶたが、夢の輪郭に触れたみたいに、時々ぴくりと動く。
遥の夢は、どんな景色をしているんだろう。
締め切りの前夜、机の上でペンを走らせる横顔を思い出す。
「綾がいれば、なんとかやれる」──あの一言が本当にうれしかった。
同棲を始めて半年。去年の春、付き合い始めたころは、週末の数時間で会うのが精一杯だった。
遥はフリーランスのイラストレーター、私はごく普通の事務。
仕事帰り、カフェの隅でスケッチブックをめくってもらうのが、小さな儀式だった。
彼女の線はいつも繊細で、描かれる女の子の目元が、どこか私に似ている気がして、何も言えなくなる。
そういえばあの日も雨の夜だった。
「一緒に暮らそうよ。綾の帰りを待つ時間が、寂しい」
その言葉を飲み込んだ瞬間、心臓が一度止まって、また違う速度で動き出した。
この小さなアパートに引っ越してきて、部屋は少しずつ遥の匂いに染まった。
朝のトースト、夜の紙の擦れる音、眠る前の呼吸。その全部が、帰るべき場所のかたちになった。
それでも、ときどき不安になる。幸せには期限の欄があるんじゃないかって。
遥は夢を語る。いつか大きな展覧会を、いつか静かな街でアトリエを。
私は、会社員の安定で支えたいと思う。でも彼女は、私の手を握って言う。
「綾の夢も一緒に叶えよう。綾がいれば、私の絵はもっと輝く」
夢をかなえたら、ここからいなくなる気がする。
外国に修行に行ったり、手が届かない場所で暮らして私からいなくなる不安がよぎる。
絡めた指の温度が、心配の輪郭をゆっくり溶かす。
膝の上で、遥が目を覚ます。上体を起こし、少し眠たげな目でこちらを覗き込む。
「綾、私寝てた? 膝、痛くない?」
「平気だよ。寝顔が可愛かったし眼福だね」
照れ隠しみたいに肩を寄せて、テーブルからスケッチブックを取る。ぱらり、という音が雨の合間に落ちる。
「今日の午後、描いたやつ。見て」
窓辺、雨の気配の中で紅茶を飲む私の横顔。
鉛筆の線は柔らかく、目元には薄い疲れが陰のように差している。
「綾の雨の日の顔、好き。少し寂しげで、でも強い」
私はページの端を親指で撫でて、遥の肩に頭を乗せる。
これが私なんだ。
「これ、私? 遥の目って、こんなふうに世界を見るんだ」
遥は鉛筆を指に挟み直し、続きを描き始める。触れ合う指先、ソファのクッションの皺、窓に残る雫の軌跡。
紙に当たる芯のかすかな音が、雨のリズムにやわらかく溶ける。
言葉は要らなかった。ぴたりと合った体温と、この部屋の静けさだけで、充分だった。
雨は夜中になってもやまない。ベッドに潜り込むと、遥の腕がいつもの場所を迷わず見つけて、私の腰を抱く。
背中に落ちる息が、布団の中で小さく揺れる。寝言の切れ端が、私の名前を呼ぶ。
目を閉じて思う。この瞬間が、いちばん確かだ。
明日、遥には新しい依頼が来るかもしれない。
私はまた会社に行く。それでも、帰り道の終点は変わらない。キス、シチュー、スケッチ。小さなアパート、二人分の呼吸。
雨の日も、晴れの日も、同じ鍵で同じ扉を開ける。
震える手の向こうにあるのは、遥の世界。その世界の中に、今日も私がいる。それで、今は充分。




