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第九話

 2018年8月10日、金曜日。種子島宇宙センター。

 夏の太陽がアスファルトを焼き、陽炎の向こうに純白の巨塔が聳え立っている。H3-Heavyの三号機。その先端には、我が国の技術の粋を集めた有人宇宙船りゅうぐうが搭載されている。中には、三名の宇宙飛行士。JAXAのベテラン飛行士である船長と、W12の国際公募で選ばれたアメリカ人の女性科学者、そして、ESAから派遣された元空軍パイロット。彼らは、国際宇宙港テラ・アンカーに滞在する、最初の住人となる。


 あの日、我々が打ち上げた中央コア・モジュール「イシズエ」は、もう孤独ではなかった。この八ヶ月の間に、アメリカの《アルゴノート》が巨大な太陽光発電パネルと最初の居住モジュールを運び、中国の「アムール・ドラゴン」がドッキングポートと生命維持システムの基幹部を接続していた。地球の上空400キロに浮かぶそれは、まだ骨格だけの不格好な姿だが、確かに、人類の新たな「家」の形を成し始めていた。


 管制室の空気は、これまでの無人打ち上げとは全く異質だった。技術的な緊張感の上に、人の命を預かるという、ずしりと重い責任感が層を成している。俺の役割は、打ち上げからテラ・アンカーへのランデブー、そしてドッキングに至るまでの全軌道を監視し、万が一の逸脱があれば、瞬時に緊急回避プランを提示することだ。ディスプレイに並ぶ緑色の正常値の羅列が、今日ほど心強く、そして脆く見えたことはなかった。


「船長、気分は?」

 管制責任者フライトディレクターの問いに、ヘッドセットから、落ち着き払った声が返ってくる。

「最高だ。地球で一番高い場所にいるんだからな。早く、もっと高い場所へ行きたいよ」

 軽口に、管制室の空気がわずかに和む。だが、誰もが知っている。彼らは今、数百万ガロンの液体燃料という名の、巨大な爆弾の上に座っているのだ。


「……10、9、8……」

 運命のカウントダウンが始まった。俺はコンソールを握る手に汗が滲むのを感じながら、ただひたすらに、自分が導き出した軌道が完璧であることを祈った。

「……3、2、1、リフトオフ!」


 轟音。振動。白い閃光。H3-Heavyは、三人のクルーを乗せて、青い空へと吸い込まれていった。サキモリが切り離され、完璧な帰還を果たした時には、もう誰も歓声を上げなかった。我々の意識は、宇宙空間を上昇し続ける、小さなカプセルに集中していたからだ。


 打ち上げから9分後。《りゅうぐう》は、地球を周回する安定軌道に到達した。

「こちら、りゅうぐう。我々は今、無重力だ。眼下には、我々の故郷が見える。――言葉にできないほど、青い」

 船長からの第一報。管制室は、嵐のような拍手に包まれた。だが、本当の仕事はここからだ。8時間の追跡飛行を経て、テラ・アンカーと秒速7キロ以上で飛びながら、寸分の狂いなくランデブーし、ドッキングしなければならない。


 その8時間の間に、宇宙開発の景色は、我々が知らないうちに様変わりしていた。

 管制室の片隅にあるサブモニターには、民間の宇宙関連ニュースが絶えず流れている。スペースXのファルコンXXは、すでに週に一度のペースでテラ・アンカーへの無人物資輸送を請け負う「宇宙の定期便」となっていた。昨日も、彼らはアメリカが建設した居住モジュールで使う実験機材や、クルーのための食料を運び込んでいる。

 ジェネシス景気に沸く地上では、宇宙食を開発するベンチャー、宇宙服の素材を研究する新興企業、さらには宇宙旅行者向けの保険商品を開発する会社まで、無数のスタートアップが生まれていた。かつて国家だけのものだった宇宙は、猛烈な勢いで、民間へとその裾野を広げている。


 他のW12参加国も、着実に歩を進めていた。ESAは、月の南極で水の氷が存在する最有力候補地を特定したと発表。ロシアとインドは共同で、月面で活動する建設ロボットのプロトタイプを公開した。誰もが、自分の役割を果たしている。巨大なカレンダーの、予定通りに。


 そして、運命の瞬間が訪れた。

「テラ・アンカー、視認。相対距離500」

 りゅうぐうのカメラが捉えた映像が、メインスクリーンに映し出される。太陽光を浴びて鈍い金色に輝く、巨大な建造物。俺たちが図面の上でしか知らなかった「家」が、そこにあった。


「最終接近シーケンス、自動制御へ移行」

 俺は、ディスプレイ上の予測軌道と、リアルタイムで送られてくる実測値のグラフが、完璧に重なっていることを確認する。心臓が、早鐘のように鳴っている。

「距離、10。……5、4、3、2、1……」


 コンタクト、と表示が出た。

 金属同士が触れ合う、ごく微かな衝撃音。そして、ロック機構が作動する、確かなラッチ音が響き渡る。


「ドッキング、完了」


 フライトディレクターのその一言で、張り詰めていた管制室の空気が、一気に弛緩した。今度こそ、本当の歓声と、涙まじりの抱擁が、あちこちで生まれていた。


 一時間後、ハッチが開かれ、三人のクルーがテラ・アンカーの「礎」モジュールへと体を滑り込ませた。船長が、無重力空間にふわりと浮かびながら、カメラに向かって親指を立てた。

「ただいま。人類の、新しい家に、帰還しました」


 その映像を、俺は万感の思いで見つめていた。

 俺の仕事は、彼らをそこへ送り届けることだった。その責任は、今、果たされた。

 だが、安堵と同時に、全く新しい種類の、そして遥かに重い責任が、自分の肩にのしかかってくるのを感じていた。


 これまでは、軌道という「道」を作ることが俺の仕事だった。だが、これからは違う。この道を通って、人々が宇宙で「暮らし」始めるのだ。生活には、予測不能なトラブルがつきまとう。機器の故障、物資の欠乏、そして、人間の心の問題。

 俺たちの計算は、これから、彼らの「生命線」そのものになる。


 礎は、継がれた。

 俺は、無数の仲間たちが働く管制室の喧騒の中で、一人、宇宙に浮かぶ小さな家族の、未来の軌道を想っていた。

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