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第八話

 2017年12月20日、種子島宇宙センター。

 海から吹き付ける風は、鉄の匂いがした。発射場パッドに聳え立つ純白の機体、H3-Heavy初号機は、まるでこれから天へ昇るための巨大な墓標のようにも見えた。その両脇には、我々が育て上げた再利用モジュール《サキモリ》が、主翼を休める鋼の鳥のように静かに控えている。


 管制室のコンソールが示す数字は、全て緑色に点灯していた。だが、俺の胃は、鉛を流し込まれたように重い。今日、我々はただロケットを打ち上げるのではない。宇宙に、人類初の「礎」を置くのだ。


「全システム、最終チェック完了。打ち上げシーケンス、自動制御へ移行します」

 若い管制官の声が、緊張に満ちた静寂を切り裂いた。


 H3-Heavy初号機の先端、フェアリングの中に収められているのは、国際宇宙港テラ・アンカーの最初の骨格となる、**中央コア・モジュール「イシズエ」**だ。全長15メートル、直径8メートル。これまでのどんな人工衛星よりも巨大なこの円筒を、俺が計算した軌道へと正確に送り届ける。それが第一の使命。

 そして、打ち上げから3分後、切り離された二基のサキモリを、種子島沖の洋上プラットフォームへ寸分の狂いなく帰還させる。それが、第二の使命。


 二つの最前線。俺の頭の中では、上昇していくロケットの軌道と、放物線を描いて落下してくるブースターの軌道、その二つの計算が同時に、目まぐるしい速さで回転していた。


「……10、9、8……」

 カウントダウンが始まった。俺は、祈るように目を閉じた。


「……3、2、1、リフトオフ!」


 地響きと共に、管制室の窓がビリビリと震えた。ゆっくりと、しかし圧倒的な力で、H3-Heavyはその巨体を持ち上げる。噴射炎が海面を焼き、白い水蒸気が巨大な竜のように立ち昇った。


「推力正常! 軌道、トレース通りです!」

 歓声はない。誰もが、自分の仕事に集中している。成功は、全てのミッションが完了するまで訪れない。


 打ち上げから180秒後。

「サキモリ、分離シーケンスへ」

 モニターに映る機体から、二基のブースターが綺麗に分離した。H3-Heavyは身軽になり、さらに高度を上げていく。そして、分離したサキモリは、翼のようなグリッドフィンを展開し、地上への帰還の旅を始めた。


 ここからが、二正面作戦の本番だ。管制室の半分は、宇宙へ向かうロケットを追い、残りの半分は、地上へ戻るサキモリを追う。俺の視線は、二つのモニターの間を絶え間なく往復した。


「礎、目標軌道へ。最終噴射、成功!」

「サキモリ、逆噴射シーケンス、点火!」


 歓声が、二度、上がった。

 H3-Heavyは、巨大な礎を、地球を周回する建設軌道へ完璧に送り届けた。そして、二基のサキモリは、まるで示し合わせたかのように、二隻の洋上プラットフォームへ寸分の狂いなく着地した。


 その瞬間、管制室は本当の熱狂に包まれた。だが、俺は椅子に深く沈み込み、大きく息を吐き出すことしかできなかった。俺の仕事は、まだ終わっていなかったからだ。


 その日の夜、世界中のニュースが、日本の快挙を報じた。テラ・アンカー建設の、記念すべき第一歩。

 だが、その同じ日、W12の別のチームは、全く別の戦いを始めていた。


 ESAが打ち上げた月周回探査機が、月の南極上空から、詳細な地表データを送り始めていたのだ。月面基地アルテミス・プライムの建設候補地を絞り込むための、水の氷の探査。それは、八咫烏計画のもう一つの柱である、日本の担当する居住モジュールを、どこへ、どのように設置するかに直結する、重要なミッションだった。


 祝杯を挙げる同僚たちに背を向け、俺は自室に戻り、新しい計算ウィンドウを開いた。

 タイトルは『月極軌道上からの資材投下における最適降下シーケンス』。


 宇宙では、礎が一つ置かれた。

 地上では、次の戦いが、もう始まっている。

 俺は、地球周回軌道と、月周回軌道、その二つの最前線を同時に見据えながら、キーボードを叩き始めた。休んでいる暇など、どこにもなかった。

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