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第六話

 2016年10月5日、月曜日。

 あの日から一年。日本は、熱に浮かされたような好景気に沸いていた。

 岡田総理が打ち出したジェネシス計画は、W12参加国からの莫大な初期投資と、未来への期待感を呼び込み、円は瞬く間に1ドル100円台まで高騰した。「ジェネシス景気」と呼ばれるこの現象は、輸入に頼る資材価格を押し下げ、総理が同時に進める「第二次列島改造計画」を加速させた。妻の働く設計事務所は、海外の最新建材を安く仕入れられると嬉しい悲鳴をあげている。一方で、従来の輸出型大手企業からは悲鳴そのものが聞こえてきた。社会の新陳代謝が、強制的に始まっていた。


 そして、俺たちの職場である**JAXA(宇宙航空研究開発機構)は、この巨大プロジェクトの技術的な心臓部を担うことになった。政治的な決定や予算配分は、霞が関に新設された「宇宙開発省」**が行う。俺たちは、純粋な技術者・科学者として、彼らが描く壮大な設計図を、物理法則と格闘しながら現実の形にする役目を負っていた。


「最終降下フェーズへ移行。目標座標との誤差、0.03パーセント」

 ヘッドセットから聞こえる冷静な声と、心臓の鼓動だけが、やけに大きく響く。

 種子島宇宙センター、第一管制室。俺は、目の前のディスプレイに表示される、一本の放物線から目を離せずにいた。それは、俺がこの一年間、魂を注ぎ込んできた計算の結果だった。


 ジェネシス計画の成否は、輸送コストの劇的な削減にかかっている。W12の中で、日本がその主導権を握るために与えられた使命。それは、H3-Heavyロケットのブースター部分を、他国に先駆けて安全に地上へ帰還させること。その再利用モジュールには、古代、日本の国境を守った兵士の名が与えられた。


 ――コードネーム《サキモリ(防人)》。


 今日、行われているのは、そのサキモリ試作機単体の、高高度からの大気圏再突入・着陸試験だ。成層圏まで運ばれた銀色の槍の穂先のようなモジュールが、今、制御された自由落下で地上を目指している。


「対地高度5000。グリッドフィン正常。姿勢制御、完璧です」

 若い管制官の声が、わずかに上ずる。モニターの映像が、落下するサキモリから見た地上の景色に切り替わる。雲の海を突き抜け、眼下に広がる青い海面が、急速に迫ってくる。

「高度1500。逆噴射エンジン、点火準備」

 俺は固唾を飲んだ。ここからが正念場だ。落下速度を、着地の衝撃に耐えられるまで殺しきれるか。計算上は、できるはずだ。だが、現実の風は、計算通りには吹かない。

「5、4、3、2、1……点火!」


 モニターの映像が、一瞬ホワイトアウトした。次の瞬間、サキモリの下部から噴き出した青白い炎が、落下速度を強力な力で相殺していくのが見えた。海上に浮かぶ着陸プラットフォームが、みるみるうちに大きくなる。


「速度、最終減速フェーズへ。ランディングギア、展開」

「……着地」


 管制室が、一瞬、死んだように静まり返った。

 サキモリは、まるで疲れた鳥が枝に止まるように、ほとんど音もなく、洋上のプラットフォームにその四本の脚でふわりと降り立った。数秒遅れて、衝撃波の低い音が管制室の窓を軽く揺らす。


 次の瞬間、割れんばかりの拍手と歓声が、部屋を埋め尽くした。

「やったぞ!」「止まった! 立ったぞ!」

 誰もがハイタッチを交わし、抱き合っている。俺の隣でモニターを睨みつけていた白髪の部長が、その皺だらけの手で、俺の肩を強く、二度叩いた。

「……よくやった」

 その一言だけで、この一年間の不眠不休の日々が報われた気がした。


 先陣を切ったのは、日本だった。W12の中で、再利用型ロケットのキーコンポーネント開発に、最初に成功したのだ。これは、JAXAという一つの研究開発機関の、純粋な技術的勝利だった。


 その夜、ささやかな祝勝会が開かれた。久しぶりに飲むビールの味は、天国のようにうまかった。だが、俺の頭の片隅では、早くも次の計算が始まっていた。

 これは、始まりに過ぎない。単体のモジュールは成功した。次は、これを巨大なH3-Heavyのブースターとして、実際に打ち上げ、制御し、帰還させなければならない。その軌道計算は、今日の比ではないほど複雑になる。


 祝勝会がお開きになり、スマホを確認すると、二通のメールが届いていた。

 一通は、JAXAの理事長からだった。『日本の技術者の底力を見せてくれた。誇りに思う』という、短いながらも心のこもった文章だった。


 そして、もう一通。差出人は、宇宙開発省の黒田官房長。


『サキモリ第一段階成功、確認した。見事だ。

 これを受け、W12評議会は、日本のH3-Heavyをテラ・アンカー建設のための第二次輸送隊に正式採用することを決定した。

 ついては、宇宙開発省よりJAXAに対し、月遷移軌道への投入を前提とした、次期ブースターの飛行計画の策定を正式に要請する。

 ――第一次草案の提出は、当初の予定を三ヶ月前倒しとする』


 俺は、メールを閉じた。ビールで火照っていたはずの体が、急速に冷えていくのを感じた。

 JAXAの技術的勝利は、即座に宇宙開発省の政治的勝利となり、そして、俺たち現場の技術者への、さらなる締め切りとなって返ってくる。

 巨大なカレンダーの、次のページが、すでに無慈悲にめくられている。俺は夜空を見上げ、まだ見ぬ月への道を、頭の中に描き始めていた。

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