第五十五話
火星の脅威が、ひとまずの眠りについてから、数ヶ月が過ぎた。
だが、イージス司令室に、平穏が訪れることはなかった。私たちは、固唾を飲んで、ただ一点を、見つめ続けていた。太陽系の、遥か外縁部。冥王星の軌道を越えた、深淵の闇。そこから届く、か細い信号だけが、私たちの、世界の全てだった。
斥候。50年の孤独な旅を終え、ついに、来訪者たちの航路上で、待ち伏せ観測を開始した、人類の、たった一つの目。
「……そろそろ、だ」
司令室の片隅で、父が、静かに呟いた。引退したとはいえ、この歴史的瞬間を見届けるために、彼は、アドバイザーとして、ここにいる。
ゲイザーが、来訪者たちの船団を、初めて、そのセンサーの視野に捉える、予測時刻。あと、数分。
私は、汗で湿った自分の手を、強く、握りしめた。
その瞬間は、音もなく、訪れた。
「――信号、受信!」
量子通信担当のオペレーターが、叫んだ。
「ゲイザーより、第一報! 映像データ、展開します!」
メインスクリーンに、漆黒の宇宙が映し出される。そして、その中央に、ゆっくりと、信じがたい光景が、姿を現した。
それは、一つの船ではなかった。
都市のような大きさを持つ、何十隻もの、巨大な船。その一つ一つが、まるで、大陸が、そのまま宇宙を旅しているかのような、圧倒的な威容を誇っていた。
だが、その姿は、私たちが想像していた、好戦的な、戦闘艦隊のものではなかった。
「……なんだ、あれは」聡が、呆然と呟いた。「船体が……あちこち、傷だらけじゃないか……」
その通りだった。船団は、明らかに、疲弊していた。いくつかの船は、動力の一部を失い、仲間たちに牽引されているように見える。彼らは、侵略者などではない。まるで、長い、長い戦いの末に、故郷を追われた、難民のようだった。
そして、私たちは、さらに、衝撃的なものを、目の当たりにする。
その船団の、遥か後方。
漆黒の宇宙よりも、さらに深い、絶対的な「無」としか表現しようのない、巨大な、影。
それは、船ではなかった。まるで、宇宙そのものに空いた、穴。それが、ゆっくりと、しかし、確実に、難民たちの船団を、追いかけている。
そして、時折、その影から、一条の、光とも闇ともつかない何かが、放たれる。それが、難民船の一隻に命中すると、船は、爆発するのではない。ただ、音もなく、その存在が、宇宙から「削除」されるように、消滅した。
司令室は、水を打ったように、静まり返った。
誰もが、理解した。
岡田先生が「来訪者」と呼んだ者たちは、侵略者ではなかった。彼らは、この、得体の知れない、宇宙の捕食者から、逃げているのだ。
「……解析、急いで!」
恵さんの、震える合成音声が、静寂を破った。
「ゲイザーが収集した、全てのデータを、岡田先生の『黒い箱』の記録と、照合させて!」
数時間後。
恵さんと、西田博士のチームが、驚愕の、そして、絶望的な、結論を、導き出した。
「……判明しました」恵さんは、言った。「岡田先生が経験した、『最初の時間軸』での、人類の破滅。それは、この難民たちが、地球への移住を、助けを求めて、接触してきた結果、発生した、悲劇的な、すれ違いによる、偶発的な戦争でした。彼らに、悪意はなかった……」
「そして」西田博士が、重い口調で、続けた。「彼らを追っている、あの、漆黒の艦隊。我々は、これを**『サイレント・リーパー(静かなる収穫者)』**と名付けた。その正体は、不明。だが、『黒い箱』の、破損したデータによれば、これは、銀河の、生命そのものを、周期的に『収穫』する、古代の、自律的な、浄化システムのようなものらしい……」
浄化。
その言葉の、恐るべき響きに、誰もが、言葉を失った。
私たちが、100年後の脅威だと思っていたものは、ただの、嵐の前の、雨粒に過ぎなかったのだ。
本当の嵐は、その後ろに、控えていた。
「……ゲイザーからの、次の予測データは?」私は、かろうじて、声を絞り出した。
オペレーターが、震える指で、コンソールを操作した。
「……難民船団の、太陽系到達予測、2150年。これは、変わりません。ですが……その後方を進む、サイレント・リーパーの、到達予測は……」
彼は、顔を上げ、絶望的な目で、私を見た。
「……2180年。難民たちが到着してから、わずか、30年後です」
司令室に、重い、重い、沈黙が、落ちた。
人類に残された時間は、さらに、短くなった。
そして、私たちの選択肢は、かつてないほど、複雑で、そして、残酷なものとなった。
私たちは、疲弊し、傷ついた、異星の難民たちを、迎え入れるのか。
そして、そのわずか30年後にやってくる、銀河の死神と、共に、戦うのか。
あるいは、彼らを見捨て、扉を固く閉ざし、次に自分たちが「収穫」される番を、ただ、待つのか。
私は、父の顔を見た。
父は、ただ、静かに、私を、見つめ返していた。
その目は、言っていた。
――ひかり。お前の、決断の時だ、と。




