第五十二話
その日、京都フュージョニアリングの中央制御室と、アトラスのイージス司令室は、一本の、光速の神経で結ばれていた。二つの場所で、二人の若い女性が、人類の未来を賭けた、同じ一点を見つめていた。
一人は、京都の、巨大な核融合炉の前に立つ、漆原主任。
そして、もう一人は、アトラスで、その瞬間を遠隔で見守る、私、ひかり。
「……最終シーケンス、開始します」
モニターの向こう側で、漆原さんの、静かだが、揺るぎない声が響いた。彼女の背後には、片山博士が座っていた車椅子が、主を失ったまま、静かに置かれている。彼女は、師の魂と共に、この場所に立っていた。
イージス司令室の空気は、張り詰めていた。聡も、恵さんも、そして、アドバイザーとして静かに後方で見守る父も、誰もが、固唾を飲んで、モニターの数字を睨みつけている。
これから行われるのは、実験ではない。創生だ。
岡田先生が遺した未来の数式に基づき、この宇宙に存在しない、新しい物質を、我々人間の手で、生み出す。
「磁場コンテインメント、臨界点へ」
漆原さんの声が、カウントダウンを始める。
「エネルギー注入率、98パーセント……99……」
「炉心温度、1億度を突破。……2億……3億……!」
京都の核融合炉――《アマテラス》の心臓部で、今、地球上のどんな物理現象とも比較にならない、極限状態が生み出されていく。
「ひかり!」聡が、隣で叫んだ。「時空の歪みを、観測!」
恵さんのモニターに、美しい、しかし、恐ろしい、シミュレーション映像が映し出されていた。アマテラスの炉心、その中心の一点が、自らの、あまりに巨大なエネルギーによって、周囲の時空を、僅かに、だが、確かに、歪ませ始めている。
「……今よ!」
私は、叫んだ。
その声に応えるように、漆原さんの指が、最後のコマンドを、キーボードに叩きつけた。
『イグニッション(点火)』
その瞬間。
アマテラスの炉心で、一つの、光の点が、生まれた。
それは、我々が知る、どんな光とも違った。全ての光を飲み込み、そして、全ての光を、内側から放つ、絶対的な白。
ほんの、数ナノ秒の間だけ、京都の地下深くに、完璧な、小さな、太陽が、誕生したのだ。
エネルギー出力のグラフが、全てのスケールを振り切って、垂直に跳ね上がる。
そして、その太陽が、自らの重力に耐えきれず、消滅する、その、1兆分の1秒の瞬間に。
第二のコマンドが、自動で、実行された。
炉心に向けて、寸分の狂いもなく、調整された、粒子ビームが、撃ち込まれる。
全ては、一瞬の出来事だった。
光は、消えた。
異常なエネルギー値も、ゼロに戻った。
アマテラスの炉心は、何事もなかったかのように、静寂を取り戻した。
「…………」
誰もが、息をすることを、忘れていた。
成功したのか。失敗したのか。誰にも、分からなかった。
「……計測器、見て……」
最初に声を発したのは、恵さんだった。
彼女が指し示したモニター。それは、炉心の下に設置された、物質回収チェンバーの、内部を監視する、高感度質量分析計のデータだった。
そこには、信じがたい、一つの輝点が、表示されていた。
質量、数マイクログラム。
そして、その物質が、チェンバーの底に「落ちる」のではなく、天井に向かって、ゆっくりと、**「昇って」**いこうとしていることを、データは、明確に、示していた。
――負の質量。
エキゾチック・マター。
私たちは、生み出してしまったのだ。神の、物質を。
司令室は、歓声ではなく、畏怖に満ちた、静かな、どよめきに包まれた。
父が、私の後ろで、震える声で、呟いた。
「……我々は、プロメテウスに、なったのか……」
その夜。
祝杯を挙げる仲間たちを後目に、私は、漆原さんと、二人きりで、話していた。
「……やりましたね」
「ええ」モニターの向こうで、彼女は、疲労困憊の、しかし、満足げな顔で、頷いた。「先生に、良い報告ができます」
だが、彼女は、すぐに、真剣な顔に戻った。
「ですが、ひかり司令官。……問題は、これからです」
「分かっているわ」私も、頷いた。「今回、私たちが得られたのは、ほんの、砂粒一つほどの量にも満たない。火星の監視者を、眠らせるための装置を作るには、この、数百万倍の量が、必要になる」
「ええ」漆原さんは、言った。「私たちは、神の火を盗む方法を、証明しました。ですが、私たちの最初の一回は、たった一つの、火花を、手に入れたに過ぎません。あなたの『音叉』を造るには、この危険な点火を、これから、何千回、何万回と、繰り返さなければならない」
彼女は、私を、まっすぐに見つめた。
「そして、その点火は、一度でも失敗すれば……この星を、焼き尽くしかねない、禁断の火でもあるのです」
私は、言葉を返せなかった。
私たちは、絶望の淵から、一つの希望を、掴み取った。
だが、その希望は、あまりにも、熱く、そして、危険な、光だった。
私は、この星の運命と、引き換えに、神の火遊びを、続ける覚悟を、決めなければならなかった。




