第五十一話
神の物質を錬成するための、虚空の工場。その最後の鍵は、京都にあった。
片山博士は、私の突飛な提案を、子供のような笑顔で受け入れてくれた。「面白い! やりましょう! 私の炉は、そのために生まれてきたようなものです!」と。
人類のエネルギー史を塗り替えた老博士は、最後のキャリアとして、物理学の神に挑戦することに、何の躊躇もなかった。
プロジェクトの名は、《アマテラス》。
日本の太陽神の名を冠した、この計画は、片山博士の全面的な協力の下、驚異的な速度で進められていった。京都フュージージョニアリングの核融合炉は、アトラス特区の資金と技術で、大規模な改造が施されていく。
そして、最初の実験点火を、一週間後に控えた、その日だった。
一本の、短い電話が、京都から、私のアトラス司令室に、届いた。
『……先生が、倒れました』
電話の向こうで、若い女性の声が、震えていた。
私が、京都の病院に駆けつけた時、片山博士は、集中治療室のベッドの上で、たくさんのチューブに繋がれていた。脳梗塞だった。意識は、まだ、戻っていない。
ガラスの向こうで、呆然と立ち尽くす私に、一人の若い女性が、深々と、頭を下げた。
「……申し訳、ありません。私が、ついていながら……」
彼女は、片山博士の一番弟子だという、**漆原**と名乗った。博士が、その才能を誰よりも高く評価し、自らの後継者として育てていた、若き研究者。
「先生は……」漆原さんは、涙をこらえながら言った。「倒れる直前まで、笑っていました。『いよいよ、神様の火を盗みに行けるぞ』って……」
私は、言葉を失った。また、一人、偉大な光が、消えてしまうのか。父の世代の英雄たちが、次々と、舞台を降りていく。その現実が、冷たい事実として、私の胸に突き刺さった。
数日後。片山博士の意識が、奇跡的に、戻った。
だが、彼の体は、もう、科学の最前線で戦える状態ではなかった。右半身に、麻痺が残っていた。
私と父が、病室に見舞いに行くと、博士は、不自由になった左手で、ベッドの横にいる漆原さんの手を、弱々しく、しかし、確かに、握りしめた。
「……漆原君」博士は、かすれた声で言った。「あとは、君に、託す……」
「無理です!」漆原さんは、首を激しく横に振った。「私には、先生の代わりなど……!」
「代わりじゃない」博士は、穏やかに、しかし、力強く言った。「君は、君のやり方で、私を、超えていくんだ。……私は、炉を、作っただけだ。その炉で、何を生み出すかは……君たち、若い世代の、仕事だ……」
博士は、俺の方を見て、言った。
「……司令官。例の、『鍵』を……」
私は、頷くと、アタッシュケースから、未来の数式が記録された、データチップを取り出した。
そして、それを、博士に、渡そうとした。
だが、博士は、静かに、首を振った。
「……その鍵を、回すのは、もう、私ではない……」
彼は、漆原さんの方を見た。
「……漆原君。手を」
漆原さんは、おそるおそる、震える手を、差し出した。
私は、その小さな手のひらの上に、人類の未来を左右する、重い、重い、データチップを、そっと、置いた。
「……それはな」片山博士は、息も絶え絶えに、しかし、まるで、夢見るような目で、言った。「ただの、数式じゃない。人類の、次の千年の歴史を、開くための、扉の鍵だ。……私は、もう、年を取りすぎた。この手を、汚しすぎた。その扉を開けるのは、君のような、若く、清らかな手でなければ、ならんのだ……」
漆原さんの瞳から、大粒の涙が、溢れ落ちた。彼女は、そのチップを、まるで、壊れ物を包むように、両手で、固く、握りしめた。
その瞬間、一人の、臆病だった弟子は、師の遺志を継ぐ、覚悟を決めた、科学者へと、生まれ変わった。
私と父は、その、あまりにも荘厳で、あまりにも感動的な、引継ぎの儀式を、ただ、黙って、見つめていた。
世代は、こうして、受け継がれていく。
古い光が、消える直前に、その最後の輝きを、新しい光へと、託して。
一週間後。
京都フュージョニアリングの、中央制御室。その中央には、片山博士の席ではない、新しく設けられた、漆原さんのコンソールがあった。
私は、アトラスから、彼女の隣に、ホログラムで、立っていた。
「……準備、できました」
モニターに映る漆原さんの顔には、もう、迷いはなかった。彼女は、師から受け継いだ、強い意志の光を、その瞳に宿していた。
私は、深く、頷いた。
「……分かったわ、漆原主任。――太陽を、作りましょう」
漆原さんの、細く、しかし、力強い指が、コンソールの、メイン・イグニッション・キーへと、伸ばされていった。
人類の、新しい創世記の、点火を、継ぐために。




