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第五十話

 絶望には、形がない。それは、ただ、魂の重さを増していく、終わらない重力だった。

 私の目の前のホログラムに映し出された設計図は、寸分の狂いもなく、美しかった。まるで、神の思考そのものを写し取ったかのような、完璧な幾何学。だが、その完璧さこそが、私たち人間の限界を、無慈悲なまでに突きつけていた。

 負の質量を持つ、安定化されたエキゾチック・マター。現代物理学の教科書では、理論上の可能性として、数式の中にしか存在しない物質。それを主要素材としなければ、この装置は作れないのだと、恵さんのシミュレーションは、ただ同じ答えを絶望的なまでに繰り返していた。


 司令室の空気は、死んでいた。火星から帰還の途にある《閃き》の仲間たちは、私たちが嘘の理由で呼び戻したことを、まだ知らない。彼らを救うための唯一の答えを、私たちは手にしたはずだった。だが、その答えは、私たちには到底、解くことのできない、未来の言語で書かれていた。私は、父が、そして岡田先生が座っていたこの司令官の椅子で、ただ、無力感に打ちひしがれることしかできなかった。


 何かが、見えていない。何か、決定的なピースを、私たちが見落としている。

 そうでなければ、あの「観測者」たちは、あまりにも不親切で、残酷すぎるではないか。彼らが、本当に私たちを助けようとしているのなら、必ず、どこかに、ヒントが隠されているはずだ。


 私は、思考を強制的に切り替えた。一度、この美しすぎる設計図から、目を離そう。そして、もう一度、原点に戻る。火星へ、私の意識を飛ばすのだ。

 私は、司令官権限で、帰還途中の《閃き》へ、私的な通信回線を開いた。モニターに、船長の鎌田さんの、長い旅路に疲れた顔が映る。

「……ひかり司令官。どうしたんだ、こんな時間に」

「聞かせてください、鎌田さん」私は、単刀直入に尋ねた。「あなたたちが、ヘラス平原で見つけたもの、その全てを。公式の報告書に載っていない、どんな些細なことでもいい。計器の異常、奇妙なデータ、クルーが感じた、ただの『違和感』でも構いません」


 鎌田さんは、しばらく、何かを思い出すように、宙を見つめていた。

「……そういえば」やがて、彼は思い出したように言った。「一度だけ、奇妙なことがあった。着陸船の、高感度重力計が、ほんの一瞬だけ、ありえない数字を叩き出したんだ」

「ありえない数字?」

「ああ。まるで、地面の、空間そのものが、ほんのナノ秒だけ、歪んだように見えた。船内の誰もが、故障したメインエンジンの、電磁的なノイズだろうと、結論付けたが……。俺だけは、どうにも、腑に落ちなくてな」


 空間の、歪み。

 その言葉が、雷のように、私の脳を撃った。私は、礼もそこそこに通信を切り上げると、書斎から、父が私に遺してくれた、古いデータファイルを探し出した。来訪者たちが、木星の放射線を「受け流す」という、あの磁場航行システムの理論データ。あの理論の根幹は、何だった? 時空そのものに、微細な影響を与えることだ。


 私は、その足で、恵さんの研究室へと走った。

「恵さん! 私、とんでもない勘違いをしていたのかもしれない!」

 車椅子から、彼女が私を見上げる。その大きな瞳に、私は、確信に近い仮説をぶつけた。

「私たちは、エキゾチック・マターという『材料』を探していた。でも、もし、それが間違いだったら? もし、観測者たちが、私たちに、そのものを『作れ』と、言っているのだとしたら?」


 恵さんの目が、大きく見開かれた。

「……まさか」

「観測者がくれた設計図。あれは、ただの装置の設計図じゃない。その幾何学模様の中に、この物質そのものを、ゼロから生成するための『レシピ』も、隠されているんじゃないかしら!」


 恵さんの指が、猛烈な勢いでキーボードを叩き始めた。その思考は、スーパーコンピューターと直結し、常人には理解不能な速度で、仮説を検証していく。

 やがて、彼女は、装置の設計図の、その複雑な構造の中に、隠されていた、別の次元のデータ階層を、引きずり出した。そこにあったのは、やはり、数式だった。

 そして、その数式が示していたのは、一点の、極小の空間に、莫大なエネルギーを集中させ、一時的に、この宇宙の物理法則を書き換えるための、恐るべき理論だった。


「……工場が、必要です」恵さんが、静かに、しかし、興奮を隠しきれない声で言った。「この数式を、現実の形にするための、巨大な、そして、極めて特殊な、エネルギー施設が」

 その瞬間、私の頭の中で、最後のピースが、音を立てて、はまった。


 岡田先生が、父に託した、最後の遺産。

 父が、片山博士に託した、未来の点火。

 京都フュージョニアリングの、あの、実験用核融合炉。


 あれは、ただの発電所ではなかったのだ。岡田先生は、この日のことを、全て、知っていたのだ。あれこそが、この、神の物質を錬成するための、虚空の工場だったのだ。


 私は、震える手で、一本の電話をかけた。

 相手は、もはやノーベル賞を受賞し、世界のエネルギー史の教科書に、その名を刻んだ、京都フュージョニアリングの、片山博士。


「……片山博士。アトラス特区、イージス計画司令官の、ひかりです」

『これは、これは、司令官。このような私に、一体どのようなご用件ですかな』電話の向こうで、老博士の、少しも変わらない、人の良さそうな声がした。


 私は、単刀直入に、そして、私の人生で、最大の賭けとなるであろう、言葉を、切り出した。

「博士。あなたに、作っていただきたいものが、あります」

『ほう?』

「太陽です」

 私は、言った。

「あなたの炉の中に、ほんの一瞬だけ、太陽の中心よりも、もっと、高密度で、高エネルギーの、小さな、小さな太陽を。――そうすれば、博士。私たちの手で、この宇宙に、まだ存在しない、新しい物質が、生まれるはずです」

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