第四十九話
司令官の椅子は、時として、断頭台よりも冷たい。
私は、イージス司令室の、その冷たい椅子に座り、火星にいる英雄に、人生で最も重い嘘をつこうとしていた。
「――鎌田船長。聞こえる?」
メインスクリーンに映る、歴戦の宇宙飛行士の顔。彼の背後の窓には、赤く乾いた火星の大地が広がっている。
『こちらヒラメキ、鎌田だ。どうした、ひかり司令官。そんなに深刻な顔をして』
私は、深く、息を吸った。一度、嘘を口にすれば、もう、後戻りはできない。
「……単刀直入に言うわ。ヒラメキの、核融合エンジンに、設計上の、重大な欠陥が見つかった」
『……何だと?』
鎌田の顔から、笑みが消えた。
「原因は、長期的な中性子照射による、炉心封じ込めフィールドの、予測不能な劣化。このままミッションを続ければ、数ヶ月以内に、炉心が暴走する危険性がある。……あなたたちを、地球へ、帰還させられなくなる」
それは、完璧な嘘だった。西田博士と恵さんが、三徹して作り上げた、誰にも論理的な矛盾を指摘できない、偽りの技術報告書。だが、嘘であることに、変わりはなかった。
『……馬鹿な。全てのデータは、正常だぞ!』
「ええ。今はね」私は、心を鬼にして、続けた。「でも、これは時限爆弾のようなものなの。故障してからでは、もう、手遅れになる。W12の最終決定として、あなたたちの、火星における全ミッションを、本日をもって、即時、中止する。――新しい任務は、ただ一つ。地球へ、生きて、帰ってくること」
数秒間の、重い沈黙。
モニターの向こう側で、鎌田は、唇を固く噛み締め、何かをこらえるように、目を閉じた。彼のチームが、あと少しで、地球外生命の痕跡に、手が届くかもしれなかった場所。その夢を、私は、今、この手で、奪い取ろうとしている。
『…………了解した』
やがて、彼が絞り出した声は、宇宙飛行士としての、完璧な、プロフェッショナルの声だった。『我々は、速やかに、撤退準備に入る』
こうして、人類史上、最も静かで、最も苦い、撤退作戦が始まった。
火星では、クルーたちが、悔しさを押し殺し、探査ローバーを格納し、実験装置を停止させていく。その様子が、無音の映像で、司令室に送られてくる。誰もが、彼らの無念を思い、唇を噛んでいた。
そして、地球では、私のチームが、この緊急脱出のための、全く新しい、そして、極めて非効率な、帰還軌道の計算に、不眠不休で取り組んでいた。
その、水面下の喧騒と並行して。
司令室の、もう一つの区画では、もう一つの、全く異なるミッションが、静かに、進行していた。
「……準備、できました」
恵さんが、車椅子から、私を見上げた。彼女のモニターには、火星の「監視者」の、全てのデータが、一つの美しい、そして、難解な、問いの形に、変換されている。
聡が、月のアルテミス・プライムにいる、ルナへ、回線を開いた。
「ルナ。聞こえるか。――今から、『問い』を送る。君のその手で、未来への扉を、叩いてくれ」
月の、アーティファクト・ゼロの、地下深くに眠る「観測者」。その存在は、W12の中でも、この場にいる、数名しか知らない。
ルナは、アルテミス・プライムの、深宇宙通信アンテナを、手動で、月の「黄泉」クレーターへと向けた。そして、恵さんが作り上げた、人類の、神への問いを、深淵の闇へと、送信した。
それは、祈りにも似た、行為だった。
数日後。二つの作戦は、ほぼ同時に、クライマックスを迎えた。
火星。全ての撤収作業を終えた《閃き》が、赤い大地から、最後の離陸を行った。それは、凱旋ではなく、傷ついた、敗走のようにも見えた。だが、私は、モニターの中で、ゆっくりと火星から遠ざかっていく、その小さな光点を見て、心の底から、安堵のため息を漏らした。少なくとも、彼らは、竜の巣から、抜け出したのだ。
そして、その、まさにその瞬間だった。
「――ひかり司令官!」
恵さんの、普段は落ち着いている合成音声が、珍しく、上ずっていた。
「……応答が、あります! 月の、観測者からです!」
イージス司令室のメインスクリーンが、瞬時に、膨大な、そして、見たこともない、美しい、幾何学的なデータで、埋め尽くされた。
それは、言葉ではなかった。一つの、巨大な**「設計図」**だった。
「……これは……」
恵さんが、その設計図を、猛烈な速度で解析していく。
「……装置……ですね。火星の監視者が発する、自己増殖の信号を、中和するための、特殊な、共鳴周波数を発生させる……一種の、巨大な、音叉のような……」
希望。
我々は、ついに、悪魔を眠らせ続けるための、魔法の竪琴を、手に入れたのだ。
だが、恵さんの次の言葉に、我々は、再び、絶望の淵へと、突き落とされた。
「……ですが、ひかり司令官。この装置を、建造するためには……その主要素材として、我々の、現代の科学では、まだ、**理論上しか存在しない、特殊な、安定化された、負の質量を持つ、異次元物質**が、必要不可欠です……」
私は、言葉を失った。
モニターの片隅では、火星から、孤独な旅を続ける、仲間たちの船が、小さく、輝いている。
そして、目の前には、神が示してくれた、しかし、人間には、到底作ることのできない、奇跡の設計図。
私は、一つの絶望から逃れるために、もう一つの、さらに巨大な、絶望へと、たどり着いてしまったのだ。
私たちの、本当の戦いは、まだ、始まってさえ、いなかった。




