第二部 第四十七話
父が、イージスの指揮を退いてから、五年が過ぎた。
2077年、春。アトラス特区の地下深く、イージス司令室。父がかつて座っていた司令官の椅子に、今、私が座っている。壁にかけられた彼の写真が、まるで、お前にはまだ早い、とでも言いたげに、私を静かに見下ろしていた。
私の名前は、ひかり。かつて、星と星の間に道を作った男の、娘。そして、人類の存亡を賭けた極秘計画の、二代目司令官。
私の目の前には、巨大なホログラフィック・ディスプレイが、二つの、あまりにも巨大な計画の進捗を、無慈悲なほど正確に表示している。
左半分は、《プロジェクト・ザイオン》。木星圏に、来訪者の通信を傍受するための、巨大な諜報ステーションを建設する、人類の「剣」。私が、直接、指揮を執っている。
右半分は、《プロジェクト・オデッセイ》。太陽系の外へ、人類の「種」を運ぶための、恒星間移民船。私の夫であり、岡田前総理の孫である、聡が、その責任者を務めている。
戦うための計画と、逃げるための計画。
私と聡は、夫婦でありながら、人類の未来に対する、二つの異なる答えを、同時に、追い求めていた。
「――ひかり司令官。ザイオン計画の、第一次シミュレーション結果が出ました」
月のアルテミス・プライムから、ルナの、落ち着いた声が、ホログラムで報告してくる。彼女は、もはやただの「月の最初の子」ではない。ザイオン計画の生命維持と、船体構造材を開発する、若き天才科学者だ。
「……やはり、ダメです。木星の放射線帯は、我々の想定を、遥かに超えている。現在の最新のシールド技術を使っても、ステーションの寿命は、もって五年。有人での長期滞在は、不可能です」
ルナの報告は、私たちが、この半年間、ずっとぶつかり続けている、巨大な壁だった。木星が放つ、死の放射線。それは、どんな金属も、どんな電子機器も、そして、どんな人間の体も、無慈悲に、破壊する。
「何か、新しい素材は?」
「いくつか試しています。月の『アーティファクト・ゼロ』の構造をヒントにした、自己修復合金。ですが、まだ、理論の段階です……」
絶望的な報告。だが、私は、弱音を吐くわけにはいかない。私が、この計画の、司令官なのだから。
「……分かったわ、ルナ。研究を続けて。必ず、道はあるはずよ」
私は、気丈に、そう答えるしかなかった。
その夜。アース・ポートの、私と聡の居住ユニット。
聡は、書斎で、分厚い哲学書と、量子物理学の論文を、交互に読んでいた。彼のオデッセイ計画は、技術的な問題よりも、もっと根源的な、神学的な問いに、直面していた。
「……ひかり」聡は、疲れた顔で、私を見た。「オデッセイに搭載する、管理AIの、倫理規定を、考えているんだ。もし、オデッセイが、生命のいる惑星にたどり着いた時、AIは、どう判断すべきか。もし、その星の知的生命体が、まだ、石器時代だったら? 接触すべきか、すべきでないか。我々には、彼らの神になる権利も、悪魔になる権利も、ないはずだ」
私は、彼の隣に座り、その手に、自分の手を重ねた。
「……あなたは、お祖父様に、似てきたわね」
「そうかな」
「ええ。いつも、百年、千年先の、まだ誰も心配していないことを、一人で、心配している」
私たちは、小さく笑い合った。お互いが、それぞれ、途方もない重圧と戦っていることを、知っていた。私たちが、夫婦でいられるのは、一日の終わりに、こうして、互いの孤独の重さを、ほんの少しだけ、分かち合える、この時間だけだった。
翌日。
司令室で、一人、頭を抱えていると、不意に、背後から、懐かしい声がした。
「……あまり、根を詰めすぎるな。お前は、昔から、一人で抱え込む癖がある」
父だった。引退した後も、アドバイザーとして、時々、こうして、ふらりと、司令室にやってくる。
「お父さん……」
「木星の、放射線のことだろう」父は、まるで、全てを見透かしたように言った。「私と、黒田さんが、まだ現役だった頃、同じ問題に、ぶつかったことがある」
彼は、一つのデータチップを、私のコンソールの上に、そっと置いた。
「これは、岡田先生の『黒い箱』から、我々が取り出した、もう一つの断片だ。来訪者たちが、巨大ガス惑星の、強力な磁場を、どのように『航行』しているかの、理論データだ。――彼らは、放射線を、盾で『防ぐ』のではない。川の流れを受け流すように、船体の周りの磁場で、**『受け流して』**いる」
私は、息を飲んで、そのデータを開いた。そこには、私の知らない、全く新しい、物理学が、記されていた。
「……どうして、これを、今まで……」
「お前に、渡せなかった」父は、静かに言った。「この理論を、今の我々の技術で、実現できるかどうか、分からなかったからだ。だが、今の君たちなら……ルナ君や、恵君のような、新しい世代の頭脳なら、あるいは……」
父は、それだけ言うと、私の肩を、一度だけ、力強く叩いて、去っていった。
私は、一人、司令室に残され、父が遺してくれた、未来の断片を、食い入るように見つめていた。
父の世代の仕事は、未来を「守る」ことだった。絶望的な未来から、可能性という名の、か細い一本の糸を。
だが、私たちの仕事は、違う。
渡された、無数の、そして、矛盾する可能性の中から、どの未来を、選び取り、そして、どの未来を、切り捨てるのか。
私たちの仕事は、未来を**「選ぶ」**ことなのだ。
私は、月のルナへ、回線を開いた。
「ルナ。……シールドの設計思想を、ゼロから、見直すわよ」




