第四十四話
2068年、夏。
俺の孫が、生まれようとしていた。
アース・ポートの医療センター。ガラスの向こう側で、ひかりが、夫である聡に支えられながら、人生で最も大きな仕事に挑んでいる。俺と妻は、ただ、その手を固く握りしめ、祈ることしかできなかった。
ひかりと聡の結婚は、周囲からは、世紀のロマンスとして祝福された。ジェネシス計画の礎を築いた英雄の娘と、その計画を始動させた伝説の総理の孫。これほど、物語に満ちた結婚はなかっただろう。
だが、俺だけは、その輝かしい物語の裏で、ずっと、小さな棘のような不安を感じていた。
岡田先生が遺した、「未来の設計図」。畑中と小松崎の娘ルナと、聡が結ばれるはずだった、あの運命。ひかりと聡の結婚は、その設計図を、書き換えてしまったのではないか。俺は、娘の幸せを心から願いながらも、人類の未来という秤の片方に、その幸せを乗せてしまうことに、どこかで罪悪感を覚えていた。
その日の午後、男の子が、元気な産声を上げた。
ひかりと聡は、その子に「創」と名付けた。新しい時代を創る、始まりの子になるように、と。
俺は、ガラス越しに、初めて、自分の孫を見た。小さな、小さな手。未来の全てが、その手の中に詰まっているように見えた。
そして、その三日後。俺の、長年の疑問符に、一つの答えが示された。
イージス司令室に、西田博士からの、緊急通信が入ったのだ。
『……ついに、こじ開けたぞ!』モニターの向こうで、博士は、狂喜乱舞していた。『「黒い箱」の、最後の暗号領域! 岡田先生自身が、我々にも見つけられないように、三重のロックをかけていた、最後の遺言だ!』
俺は、息を飲んで、復元されたテキストデータを、画面に表示させた。
それは、岡田前総理が、死の直前に、未来の我々に向けて遺した、一通の手紙だった。
『――これを読んでいるかね、友よ。君が、このメッセージを見つけたということは、人類は、私が遺した最初の設計図とは、違う道を歩み始めた、ということだろう』
俺は、全身に鳥肌が立つのを感じた。
『それでいい。それでこそ、私が信じた、人間の可能性だ。未来とは、一本の道ではない。無数に分岐する、確率の川だ。私が君たちに示したのは、その無数の未来の中で、私が経験した、たった一つの、最も絶望的な未来に、至らないための、一つの海図に過ぎない』
『畑中君と小松崎君の娘、ルナ。そして、私の孫、聡。この二つの血筋が、未来の鍵であることは、間違いない。だが、その繋がり方は、一つではない。私は、二人が結ばれる未来が、最も確率の高い、最適解だと考えた。だが、君たちは、あるいは、子供たち自身の心が、別の、もっと確率の低い、しかし、もっと強い絆を選び取った。――ひかり君という、ジェネシス計画の、全ての痛みと希望を受け継いだ、第三の因子を、巻き込んで』
『素晴らしいじゃないか。未来は、託すものではない。勝ち取るものだ。君たちは、私の予測を、超えてみせたのだ』
俺は、涙で、画面が滲むのを、止めることができなかった。
岡田先生。あなたは、全て、分かっていたのか。
『だが、友よ。道が変われば、現れる敵も変わる。君たちが選んだ新しい未来には、新しい危機が待ち構えているだろう。その最大のものが、ルナ君だ』
『敵は、彼女の持つ「特異な遺伝子」の重要性に、気づいている。そして、聡君が、別の伴侶を得たことで、敵の狙いは、一つに絞られた。ルナ君を排除すれば、英雄誕生の可能性の一つが、完全に潰える、と』
『君の、本当の戦いは、これからだ。君の孫、創君。そして、月で育つ、人類の新しい希望、ルナ君。その二つの揺りかごを、同時に守り抜け。彼らが成長し、手を取り合う、その日まで。それこそが、私が、君に託した、最後の、そして、最も重要な、バトンだ』
メッセージは、そこで終わっていた。
俺は、静かに、通信を切った。
そして、アトラス特区の、巨大な窓から、漆黒の宇宙に浮かぶ、白い月を、見上げた。
あの場所で、今、一人の無垢な少女が、自らの運命も知らずに、健やかに育っている。
そして、この足元では、もう一つの、新しい命が、今、か細い寝息を立てている。
敵の狙いは、ルナ。
俺は、決意を固めた。
もう、俺は、神の真似事をする、設計者ではない。
ただ、二人の孫の、未来を守る。一人の、じいじとして。
俺は、イージス司令室の、メインコンソールに向かった。
そして、月面基地アルテミス・プライムの、防衛システムの、再構築を開始した。
嵐は、もう、すぐそこまで、来ている。




