第四十三話
2065年、春。
俺がイージスの指揮を退いてから、五年が過ぎた。ケスラーの亡霊は、今も地球の周回軌道を覆い尽くしている。だが、世界は、その瓦礫の空の下で、新しい生き方を模索し始めていた。
それは、二極化の時代だった。
一つは、宇宙への大脱出時代。
地球の未来に見切りをつけた富裕層や、新天地を求める人々が、次々と宇宙へと旅立っていく。軌道エレベーター《アトラス・タワー》の基部であるアース・ポートは、今や、かつての国際空港のような喧騒に満ちていた。
派手な宇宙服に身を包み、月面での無重力ゴルフや、火星の渓谷でのバギーレースを楽しむ、宇宙旅行者たち。彼らにとって、宇宙は究極のレジャーランドだった。
そして、その傍らで、静かに行列を作る、もう一つの人々。全財産をはたいて、片道切符の宇宙船に乗る、移住者たちだ。彼らは、月面都市アルテミス・プライムや、火星のオリンポス・ビレッジで、新しい人生を始めるのだ。彼らにとって、宇宙は最後の希望の地、約束の地カナンだった。
地球は、捨てられようとしていた。
その光景を、俺は、盟友と共に、静かに見つめていた。
「……皮肉なものだな」
病院のベッドの上で、黒田さんは、窓の外に広がるアース・ポートの喧騒を眺めながら、かすれた声で言った。彼の命の灯火は、もう、残りわずかだった。
「我々は、この星を守るために戦ってきた。だが、人々は、その星を、見捨てていく」
「仕方ないさ」俺は、彼のベッドの横に座りながら、答えた。「俺たちが、空を、壊してしまったんだからな。鳥は、壊れた巣には、もう帰ってこない」
俺たちの戦争は、地球の周りに、決して越えられない、見えない壁を作ってしまった。その壁を越えられるのは、莫大な金を持つ者か、あるいは、故郷を捨てる覚悟を決めた者だけだ。
「……だからこそ、だ」黒田さんは、俺の方を向き直った。その目は、病に蝕まれながらも、かつての鋭い光を失ってはいなかった。「我々が、始めなければならん。この、愚かな戦争の、後始末を」
その日、俺と黒田さんは、最後の共同事業を立ち上げた。
我々の私財と、岡田財団の遺産、そして、我々の理念に賛同する、少数の篤志家たちの資金で設立された、小さな、民間の財団。
その名は、《天衣財団》。
人類が汚してしまった天の衣を、もう一度、洗い清める、という意味を込めて。
俺たちの目的は、ただ一つ。地球周回軌道に散らばる、無数のデブリを、掃除すること。
それは、あまりにも地味で、誰からも注目されず、そして、途方もない時間と金だけがかかる、割に合わない仕事だった。
俺は、財団の理事長として、アトラス特区の、イージス司令室のドアを、数年ぶりに叩いた。
俺を迎えたのは、かつての俺の席に座る、二人の若き指導者だった。俺の娘、ひかりと、岡田の孫、聡。
「……力を、貸してほしい」
俺は、かつての部下であり、そして、我が子である彼らに、深く、頭を下げた。
「我々は、宇宙を掃除するための、自律型のデブリ回収ドローンを開発したい。だが、そのためには、イージスの持つ、超高度なAIと、シミュレーション能力が必要不可欠だ」
ひかりと聡は、顔を見合わせた。そして、聡が、静かに、しかし、力強く、答えた。
「……もちろんです。父さん」ひかりが、そう続けた。「いいえ、理事長。イージスは、元より、人類の『盾』となるための組織です。デブリの脅威から、地球と、そして宇宙へ向かう人々を守ることは、我々の、本来の任務です」
彼らは、俺たちの計画を、快く受け入れてくれた。
表向きは、「小惑星帯における、微小資源の自動捕獲シミュレーション」という、完璧なカバーストーリーの下で。
数ヶ月後。
俺は、病室の黒田さんに、一枚の設計図を見せていた。
それは、イージスのAIが設計した、デブリ回収ドローンの、最終稿だった。魚のマンタのような、優雅なフォルム。その巨大な翼で、デブリを絡め取り、大気圏へと誘導し、燃やし尽くす。
そのドローンには、**《水面の清掃人》**という、コードネームが与えられた。
「……美しいな」黒田さんは、設計図を撫でながら、満足そうに、息を吐いた。「剣ではなく、塵取りか。……我々の、最後の仕事に、ふさわしい」
俺は、頷いた。
世界が、宇宙という新しいフロンティアに熱狂し、多くの人々が、箱舟に乗って、この星を去っていく。
だが、俺たちは、この星に残る。
そして、誰も見向きもしなくなった、この壊れた空を、ただ、黙々と、掃除し続けるのだ。
それが、この星で生まれ、この星を愛し、そして、この星を、傷つけてしまった、俺たちの、最後の、贖罪だった。




