第四十一話
2051年、春。
岸辺総理が退陣し、その後を継いだのは、国際協調を掲げる、穏健派の白石総理だった。だが、彼女が政権の座についた時、世界の水面下では、もはや後戻りのできない、静かな戦争が始まっていた。
アトラス特区が生み出す、常温超伝導と核融合という圧倒的な技術的優位。それは、アメリカと中国を中心とする旧覇権国家群の焦りを、敵意へと変質させるのに、十分すぎるほどの時間だった。
俺が率いるプロジェクト・イージスは、その最前線にいた。
毎日のように、アトラスのネットワークには、国家レベルの洗練されたサイバー攻撃が仕掛けられた。「黒い箱」のデータを狙う、見えない敵。俺のチームは、いつしか、宇宙物理学者や軌道力学の専門家だけでなく、世界中から引き抜かれた最高のホワイトハッカーたちを擁する、巨大な防諜機関と化していた。
だが、敵は、情報戦だけでは飽き足らなかった。
その日、事件は起きた。
アトラス特区のメインコントロールルーム。俺は、軌道エレベーターの第二次ケーブル敷設作業を、保安対策室長として監督していた。その時、管制室の一角が、にわかに騒がしくなった。
「どうした?」
「月からの、無人燃料タンカー『みずがめ3号』の信号が、ロストしました!」
オペレーターの声は、信じられない、という響きを帯びていた。
「……ロスト? 通信障害か?」
「いえ、違います! テレメトリが、完全に、途絶しました。まるで……船が、忽然と、消えたように……」
俺は、血の気が引くのを感じながら、イージス専用の、極秘の監視システムを起動した。公のレーダーには映らない、月と地球の間の、全ての物体を監視する、我々の「目」。
そこには、信じがたい光景が記録されていた。
みずがめ3号の航路上に、アメリカ宇宙軍所属の、「デブリ除去衛星」と登録された一機の無人機が、高速で接近。そして、ごく短い、閃光。おそらくは、高出力レーザーか、あるいは、小型の運動エネルギー弾。
次の瞬間、みずがめ3号は、内部の液体水素に引火し、音もなく、巨大な火球となって、宇宙空間に四散していた。
――開戦。
人類は、ついに、宇宙空間で、互いの船を破壊し合うという、愚かな歴史の第一歩を、記してしまったのだ。
その夜、アトラス特区と、日本の白石政権、そして岡田財団の最高レベル会合が開かれた。
「……断じて許せん。これは、我が国への、いや、全人類の未来への、明白な攻撃だ!」
白石総理は、穏健な仮面をかなぐり捨て、怒りに声を震わせていた。
「ですが総理」黒田さんが、冷静に制した。「相手は、『デブリとの偶発的な衝突だ』と主張してくるでしょう。証拠はない。ここで有人での報復を行えば、我々は、全面戦争の口実を、相手に与えるだけです」
「では、黙ってやられていろと!」
「いいえ」黒田さんは、俺の方を見た。「我々もまた、彼らのルールで、戦うのです」
俺に、選択の余地はなかった。
俺が、人類を、そして未来の英雄を守るために設計した、イージスの「盾」。
それを、人間相手の「剣」として、使わなければならない時が、来たのだ。
俺は、イージス司令室に戻り、来るべき日のために用意していた、封印されしコマンドを、解き放った。
『作戦コード:沈黙の艦隊、発動』
まず、日本の種子島と、南米のガイアーズ・ポートから、緊急即応システム《ガーディアン》が、轟音と共に、空を突いた。だが、その先端に搭載されているのは、救助用の宇宙船ではない。ステルス性能を持つ、数十機の、小型無人戦闘ドローンだ。
次に、月面基地。基地の防衛にあたっていた建設ロボットたちが、その姿を変える。背中から、対衛星レーザー砲と、小型の迎撃ミサイルポッドを展開し、月面の「砲台」と化した。
そして、遥か彼方の小惑星帯。《ウェスタ》で待機していた、運動エネルギー兵器システムが、起動する。狙うは、地球ではない。月周辺に展開する、敵の無人艦隊。
二週間後。
月からの、次の燃料タンカーが、アルテミス・プライムを出発した。
そして、敵は、前回と全く同じように、その航路上で、牙を剥いた。三機の「デブリ除去衛星」が、タンカーを包囲するように、接近してくる。
「……来たな」
俺は、司令室の椅子に深く座り、静かに、チェスの駒を動かすように、コマンドを打ち込んだ。
「第一波、月面より、レーザー照射。敵機のセンサーを、焼き切れ」
月面から放たれた、目に見えない光の槍が、三機の敵ドローンの光学センサーを、寸分の狂いもなく、破壊した。敵は、その目を失う。
「第二波、ガーディアン・ドローン、全機突入。ジャミング(電波妨害)開始。敵を、孤立させろ」
ステルスドローンたちが、敵機の周囲に、電子の嵐を巻き起こす。敵は、耳と、声を失った。
だが、敵のAIも、愚かではなかった。外部との通信を絶たれた彼らは、事前にプログラムされた、自律的な攻撃モードへと移行。タンカーへの、特攻を仕掛けてきた。
「……チェックメイトだ」
俺は、最後のコマンドを、実行した。
「小惑星帯より射出。目標、敵機三機。――撃て」
数日前に、小惑星帯から放たれていた、三本のタングステンの槍。それらは、完璧な計算通りに、この瞬間の、この宙域へ、音もなく、到達していた。
目と耳を失い、ただ、まっすぐに突進してくるだけの、三機の敵ドローン。その未来位置へ、三本の槍が、吸い込まれるように、突き刺さった。
閃光はない。爆発もない。ただ、三つの敵の光点が、スクリーン上から、忽然と、消えただけだった。
血は、一滴も流れない。
硝煙の匂いもしない。
そこにあるのは、絶対的な計算と、AIによる、冷徹なまでの、殺戮の応酬。
これこそが、第三次世界大戦の、本当の姿だった。
俺は、震える手で、コーヒーを口に運んだ。
勝った。だが、何の喜びもなかった。
俺は、自分の知識と技術で、人を殺すための、完璧なシステムを、作り上げてしまったのだ。
モニターの向こう側、アメリカや中国の、俺と同じような立場の技術者が、今、唇を噛み締めているのだろうか。
俺たちは、一体、何と戦っているのだろう。互いの国家か。それとも、俺たちを、こうして戦わせようとしている、もっと大きな、何かか。
答えは、まだ、見つからなかった。




