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第四十話

 2048年、冬。

 アビサル・ゲイザーが太陽系を離脱してから、三年が過ぎた。それは、静かで、しかし息の詰まるような、長い待ち時間だった。斥候は、漆黒の宇宙を、光速の10パーセントという、人類史上前例のない速度で、来訪者たちの航路へと突き進んでいる。だが、その最初の報告が届くまでには、まだ数年の歳月が必要だった。


 その間にも、地球は、そして人類は、変わり続けていた。

 アトラス特区で始まった軌道エレベーターの建設は、今や、そのケーブルの先端が静止軌道をも越え、宇宙の深淵へと、一本の細い蜘蛛の糸のように伸びている。

 月では、ルナが5歳になり、低重力環境で、まるで踊るように、軽やかに育っていた。

 そして、ひかりと、岡田前総理の孫であるあきらは、アトラス国際学園の大学院で、それぞれの才能を、目覚ましい勢いで開花させていた。ひかりは、俺の背中を追うように、惑星間航行の軌道力学を。聡は、祖父が果たせなかった夢を継ぐように、惑星気候学と、テラフォーミングの理論を。二人の未来が、交差する日は、まだ、少し先の話だ。


 だが、一つの偉大な光が、その生涯を終えようとしていた。

 岡田前総理。

 未来から来た、孤独な指導者。彼の肉体は、タイムスリップという、宇宙の理に反した行為の代償か、急速に衰弱していた。


 その日、俺は黒田さんと共に、京都の郊外にある、岡田の私邸に、極秘に呼び出された。

 庭の紅葉が、最後の輝きを放っている。その縁側で、車椅子に座った岡田は、まるで枯れ木のように、静かだった。だが、その瞳だけが、かつてと変わらぬ、未来を見据える鋭い光を宿していた。


「……もう、私には、時間が残されていない」

 岡田は、穏やかな声で、そう切り出した。

「だが、思い残すことはない。君たちがいる。ひかり君や、聡がいる。未来への、種は蒔かれた」


 彼は、黒田さんに目配せをした。黒田さんが、桐の箱を、俺の前に、そっと置く。

「……これは?」

「私が、未来から持ってきた、最後の遺産だ」岡田は言った。「『黒い箱』は、来訪者と戦うための、いわば『剣』だった。そしてこれは、君たちに託す、未来を築くための『すき』だ」


 俺が、恐る恐る箱を開けると、中には、銀色の、複雑な結晶構造を持つ、一本のケーブルの断片が、静かに横たわっていた。

「……常温超伝導体」

 俺は、息を飲んだ。核融合の次に、人類の文明を根底から覆す、夢の技術。

「そうだ」岡田は、頷いた。「だが、ただの常温超伝導体ではない。これは、室温で、かつ、常圧で機能する、完全な物質だ。そして、その理論構造は……」


 岡田は、俺の目を、まっすぐに見つめた。

「……君たちが、月の『アーティファクト・ゼロ』から発見した、あの星間航路図。その幾何学構造と、奇妙なほど、よく似ている」


 俺は、全身に、電撃が走るような衝撃を受けた。

 来訪者たちの、途方もない科学技術。それは、兵器や宇宙船だけでなく、物質そのものの構造を、原子レベルで設計する、神の領域の技術なのだ。


「この技術を、どう使うかは、君たちに任せる」岡田は、静かに続けた。「これで、日本の、いや、地球のエネルギー問題は、完全に解決するだろう。軌道エレベーターの建設も、飛躍的に加速する。だが……」

 彼は、そこで一度、言葉を切った。


「……忘れるな。どんなに素晴らしい技術も、それを使う人間の心が伴わなければ、ただの、危険な玩具だ。君が、これから作るべきは、技術だけではない。その技術を、正しく使える、次の世代の『心』を、育てることだ。――ひかり君や、聡君や、そして、月で生まれた、ルナ君のような、新しい世代の、心を」


 それが、岡田が俺に遺した、最後の言葉だった。

 一週間後。

 岡田前総理は、日本の秋が、最も美しい日に、静かに、息を引き取った。

 彼の死は、一つの時代の終わりとして、世界中で報じられた。未来を語り、日本を、そして世界を、良くも悪くも、根底から変えてしまった、偉大な指導者の死。


 だが、俺だけは、知っていた。

 彼の死は、終わりではない。始まりなのだ、と。


 俺は、イージス司令室で、彼が遺した、銀色のケーブルを、静かに見つめていた。

 その向こう側、モニターに映る、漆黒の宇宙空間を、アビサル・ゲイザーが、今も、静かに、飛び続けている。


 岡田は、俺たちに、未来を託した。

 剣と、鋤。

 守るための力と、築くための力。

 その両方を、俺は、この手に、握りしめていた。

 俺たちの、本当の戦いは、これからだ。

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