第四話
ジュネーブ宣言から三週間。世界は、岡田総理とジェネシス計画の話題で沸騰していた。テレビをつければ、W12の国旗が並び、専門家たちが顔を真っ赤にして賛否両論を戦わせている。俺はその全てを遮断し、ひたすらディスプレイの上の数字と格闘していた。太陽系の重力井戸は、俺の精神をすり潰すのに十分な深さを持っていた。
金曜の深夜、疲れ果てて帰宅すると、リビングのテーブルの上に一枚のメモとDVDが置いてあった。妻からだった。
『お疲れ様。これ、録画しておきました。世の中が何に騒いでいるのか、知っておいた方がいいと思って』
土曜の夜、俺たちは久しぶりに二人でソファに並んで座り、その録画を再生した。国民的ニュース番組の二時間特番。『ジェネシス計画、徹底解剖』という、安直だが分かりやすいタイトルが画面に映し出された。
「こんばんは。キャスターの垣内です」
ベテランキャスターの落ち着いた声で番組は始まった。
「ジュネーブ宣言から三週間。期待、熱狂、そして戸惑い。今夜は、専門家の皆さんと共に、このジェネシス計画とは一体何なのか、その設計図を一枚一枚、紐解いていきたいと思います」
スタジオには三人のゲストが座っていた。楽観的な科学コミュニケーター、懐疑的な経済評論家、そして冷静な国際政治学者。実にバランスの取れた人選だった。
「まず、大前提の確認です。岡田総理はなぜ、今、宇宙なのか。国際政治学者の山根さん、どうご覧になりますか」
「ええ。総理が提示した“回避すべき未来”、すなわち食糧危機や安全保障上の脅威ですね。彼の主張は、これらの地球規模の課題は、もはや地球の中だけで解決策を探しても手遅れになる、という一点に尽きます。人類という種の生存戦略として、活動領域を宇宙に広げるという選択肢を、SFではなく現実の政策として提示した。これがW12結成の根本的な動機です」
画面に、CGで作られたW12のロゴが回転している。
「だが、コストの問題がある!」懐疑派の経済評論家が腕を組む。「国家予算を遥かに超える計画の財源はどこにあるのか。国民は納得しませんよ」
「そこで、この計画の核心に触れることになります」
今度は、科学コミュニケーターの元宇宙飛行士、長谷川が口を開いた。彼の言葉は、子供たちに語りかけるように平易だった。
「皆さん、宇宙へ行くのに一番お金がかかるのは、何だと思いますか? ――それは、地球の重力に逆らって、宇宙へモノを運び上げることなんです。だから、ジェネシス計画の答えはシンプルです。『宇宙で使うものは、宇宙で作る』。これだけです」
画面が、精巧なCGアニメーションに切り替わった。月の南極基地で、ロボットが氷を採掘している。
『月の氷は、ただの水です。しかし、これを電気分解すれば、水素と酸素、つまり高性能なロケット燃料になります』長谷川のナレーションが重なる。『地球の6分の1しかない重力で、この燃料を宇宙へ打ち上げる。月を、太陽系のガソリンスタンドにするのです』
「……本当にできるの?」妻が俺の腕を軽くつねった。
「理論上はな」俺は答えた。「問題は、そのガソリンスタンドを、どうやって月に建設するかだ。そのための資材を、結局は地球から運ばないといけない」
俺の言葉を待っていたかのように、番組は次のステップへ進んだ。超大型ロケット《アルゴノート》が、地球から巨大なモジュールを打ち上げるCG。地球低軌道で、それがISSの数十倍の宇宙港にドッキングする。
『まず、地球に最も近い宇宙に、全ての拠点となる港を作ります。これがテラ・アンカーです。ここを足場に、月へ最初の建設部隊を送る。そして、月で燃料の生産が始まれば……』
CGの中で、月から打ち上げられた補給船が、火星へ向かう宇宙船に燃料を供給している。
『……地球から運ぶのは、最初の“種”だけ。あとは、月と、いずれは小惑星帯の資源を使って、自己増殖していく。これが、ジェネシス計画の経済合理性、現地資源利用、ISRUの基本概念です』
「なるほどね」妻が納得したように頷いた。「最初に莫大な投資は必要だけど、一度軌道に乗れば、あとは宇宙の資源で回していく、と」
「そういうことだ。そして、その最初の軌道に乗せるための、膨大な計算を俺が今やらされてる」俺は、ため息と共に呟いた。
番組は、トライステラ・ネットワーク、そして小惑星帯の資源採掘ハブ《ウェスタ》、木星圏の科学研究所と、我々が設計した未来を、完璧なCGと分かりやすい言葉で解説していく。それはまるで、遠い未来のドキュメンタリー番組を見ているようだった。
最後に、再びスタジオの映像に戻った。キャスターの垣内が、厳しい表情で口を開く。
「しかし、長谷川さん。それでも、地上の課題を優先すべきだ、という声は根強い。なぜ、我々は火星を目指さねばならないのでしょう?」
長谷川は、カメラの奥の視聴者に語りかけるように、静かに言った。
「二つ、理由があります。一つは、保険です。地球というカゴだけに、人類の全ての卵を入れておくのは、あまりに危険だからです。そして、もう一つは……」
彼はそこで言葉を切り、ふっと微笑んだ。
「鏡、ですよ。火星は、生命が生まれかけたかもしれない、過去の地球の姿です。金星は、温暖化が行き着く果ての、未来の地球の姿かもしれない。宇宙へ行くことは、結局、我々自身、この地球という星のことを、より深く知るための旅でもあるんです」
番組は、感動的な音楽と共に終わった。エンドロールが流れる中、妻がテレビを消す。部屋に、静寂が戻った。
「……すごいね」妻がぽつりと言った。「なんだか、本当にできそうな気がしてきちゃう」
「ああ」俺は答えた。「設計図は完璧だ。完璧すぎるくらいにな」
だが、俺は知っている。完璧な設計図と、完成した建築物の間には、無数の失敗と、技術者たちの血の滲むような努力があることを。
「あなた」妻が俺の顔を覗き込んだ。「なんだか、楽しそうじゃないね。昔、はやぶさの映画を観たときみたいに、目がキラキラしてない」
その言葉に、俺はうまく答えられなかった。
憧れが、巨大すぎる現実の仕事になったとき、人の目から光は消えるのかもしれない。
俺はただ、ソファに深く沈み込み、まだ誰も描いたことのない、惑星間航路の複雑さを、暗いリビングの天井に思い描いていた。




