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第三十九話

 2045年、秋。

 アトラス特区という、国境のない都市での生活が始まって半年が過ぎた。ここは、未来への片道切符を握りしめた者たちが集う、巨大な箱舟だった。俺たちは、その箱舟の機関室で、誰にも知られることのない、もう一つの航海の準備を始めていた。


 プロジェクト・イージスの司令室は、アース・ポートの地下深く、厚い海水と鋼鉄の壁で外界から完全に隔離されていた。ここで、俺と西田博士、そして黒田さんが選び抜いた国内外の十数名の精鋭たちが、人類史上、最も孤独で、最も重要なミッションの設計に没頭していた。


「――問題は、推進力だ」

 会議室のホログラムに、太陽系の立体図と、そこから遥か彼方へと伸びる一本の赤い線が映し出されていた。100年以上かけて、来訪者たちの航路と交差するための、我々の斥候の軌道。

「既存の核融合エンジンでは、加速に時間がかかりすぎる。斥候が目標宙域に到達する頃には、我々の孫の世代になっている」

 アメリカから引き抜いた、推進システムの専門家が頭を振った。


「その点は、心配ない」

 答えたのは、西田博士だった。彼は、嬉々として、新しい数式をホログラムに映し出した。

「京都フュージョニアリングとの共同研究で、ついに完成した。未来の『黒い箱』が示した、磁場圧縮プラズマ推進……コードネーム**『アスカ・ドライブ』**だ。理論上、この斥候を、光速の10パーセントまで加速させることが可能になる」


 アスカ。日本の、神話の時代の名。我々は、未来の技術で、古代の夢を叶えようとしていた。

 もう一つの課題は、ステルス性だった。斥候は、来訪者たちの船団に気づかれることなく、彼らを観測しなければならない。

「船体は、レーダーにも、光学センサーにも映らない、最新のメタマテリアルで覆う」黒田さんが、静かに言った。「そして、通信は、電波を使わない。西田博士が解読した、未来の量子通信理論を応用した、量子エンタングルメント通信を、世界で初めて実用化する。これで、我々は深宇宙と、盗聴不可能な、秘密のホットラインで結ばれる」


 推進力、ステルス性、通信。全てが、現代の科学技術の延長線上にはない、まさに未来のテクノロジーだった。俺たちのプロジェクト・イージスは、もはや防衛計画ではなく、未来創造計画そのものだった。

 その斥候には、**《深淵を覗くアビサル・ゲイザー》**という、コードネームが与えられた。


 だが、その輝かしい技術の進歩の裏で、俺の心は、日に日に重くなる鉛を抱えているようだった。

 俺は、世界を、仲間を、そして、愛する家族を、欺いている。


 その週末、俺は、ひかりが通うアトラス国際学園の、研究発表会に出席していた。ひかりは、岡田前総理の孫である、聡明な少年と同じチームで、ある研究成果を発表していた。

「……以上の計算から、我々のチームは、太陽系外縁部で発生している、極めて微弱な、しかし周期的な、高エネルギーニュートリノの放出源を特定しました」

 ひかりは、大勢の聴衆の前で、堂々と、そう語っていた。その姿は、俺の知る、甘いケーキを夢見ていた少女ではなく、未来をその手で掴み取ろうとする、若き科学者の顔をしていた。


「このニュートリノの発生パターンは、自然現象とは考えにくい。何らかの、人工的な、超高効率のエネルギー変換の結果である可能性があります。――私達は、これを**『未知のエンジン』**の信号ではないかと、考えています」


 発表が終わると、会場は万雷の拍手に包まれた。俺も、父親として、誇らしい気持ちで、力強く手を叩いた。

 だが、その夜。俺は、イージス司令室で、ひかりが突き止めた、その「未知のエンジン」の、本当の正体を見つめていた。

 それは、アビサル・ゲイザーに搭載する、アスカ・ドライブの、秘密の性能試験で発生した、ニュートリノの痕跡だったのだ。


 ひかりが、その類稀なる才能で、必死に手を伸ばしている未来。その未来の正体は、彼女の父親である、俺自身だった。

 俺は、娘にさえ、嘘をついている。この事実が、ナイフのように、俺の心を抉った。


 そして、運命の日が来た。

 アビサル・ゲイザーの打ち上げは、軌道エレベーター《アトラス・タワー》の、第七次ケーブル敷設資材の打ち上げミッションの、**相乗り(ピギーバック)**として、巧みに偽装された。

 アース・ポートの、巨大な中央管制室。メインスクリーンには、世界中継される、アルゴノート2の、華々しい打ち上げの様子が映し出されている。誰もが、軌道エレベーターの建設という、公の成功に、熱狂している。


 だが、俺は、その管制室の片隅にある、小さな個室にいた。イージス計画の、秘密の管制卓。目の前のモニターに映っているのは、アルゴノートの貨物ベイから、音もなく放出された、黒く、小さな、六角形の塊だけだった。


「アビサル・ゲイザー、分離成功」俺は、インカムに、静かに告げた。「これより、太陽系離脱シーケンスへ移行する」

 地球の重力圏を抜け、月軌道を越えた、漆黒の宇宙空間。

 俺は、最後の、そして最も重要な、コマンドを打ち込んだ。

『アスカ・ドライブ、点火』


 モニターの中で、アビサル・ゲイザーの後部から、一瞬だけ、小さな太陽が生まれたかのような、眩い光が放たれた。それは、人類が初めて、意図的に、太陽系の外へ向けて放った、反撃の狼煙だった。

 光は、すぐに消えた。アビサル・ゲイザーは、完全なステルスモードに入り、その存在を、宇宙の闇の中へと、溶け込ませていった。


 俺のモニターには、量子通信で結ばれた、か細い一本の線と、猛烈な速度で太陽系から遠ざかっていく、小さな光点の軌跡だけが、残されていた。

 俺は、深淵を覗くための、たった一つの「目」を、今、放ったのだ。

 その目が、何を見つけるのか。そして、その目の存在に、深淵の向こう側にいる「何か」が、気づくのか。

 もう、後戻りはできない。

 俺は、人類を代表して、宇宙の闇に、宣戦布告をしたのかもしれなかった。

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