第三十八話
2045年、夏。
俺のパスポートには、もはや日本の出国スタンプは押されない。俺の新しい故郷は、太平洋の赤道上に浮かぶ、直径5キロの巨大な人工島。軌道エレベーター《アタラス・タワー》の基部となる海上都市、《アース・ポート》。ここは、どの国にも属さない、人類初の宇宙特区だ。
月面都市は完成し、火星探査から帰還した英雄たちは、その後の世代へとバトンを繋いだ。ジェネシス計画は、30年にわたり、人類に希望と進歩をもたらし続けた。
だが、地上は疲弊していた。核融合という名の太陽を手に入れても、長年地球が蝕まれてきた気候変動と、縮小し続ける人口という重力からは、逃れられなかったのだ。国民の不満は、ついにジェネシス計画という「聖域」に向けられた。「未来への投資」は、いつしか「現在からの搾取」だと、声高に叫ばれるようになった。
そして、岸辺政権は総選挙で敗北。日本は、国家の舵取りを、複数の政党が担う「大連立時代」へと突入した。その最初の決定が、宇宙開発予算の、壊滅的な削減だった。
ジェネシス計画は、死んだはずだった。だが、岡田前総理が放った「キマイラ計画」という奇策によって、それは、国家と民間、そして世界中の資本が融合した、全く新しい生命体として蘇った。
.俺たち、旧宇宙開発省とJAXAの「イージス」計画のメンバーは、日本政府からの「無期限出向」という名の、事実上の片道切符を手に、この国境のない都市へと移住した。それは、栄転であり、亡命でもあった。
妻と、アトラス国際学園の大学部に通う、17歳になったひかりとの生活は、一変した。
窓の外に広がるのは、見慣れた日本の街並みではなく、360度の水平線と、頭上へ向かって天を突くように伸びる、巨大なタワーの姿。ひかりは、時々、寂しそうな顔で、日本の桜が見たい、と言った。
俺の新しい肩書は、アトラス特区管理機構・軌道建設局・保安対策室長。
表向きの仕事は、軌道エレベーターを、彗星群や宇宙デブリから守るための、防衛システムの設計。だが、それは完璧なカバーストーリーだった。俺の本当の仕事は、その防衛システムを隠れ蓑に、100年後の「来訪者」を迎撃するための、プロジェクト・イージスを続行することだ。
その夜、俺は、アース・ポートの縁にある展望デッキに立っていた。
「パパ」
不意に、後ろから声がした。ひかりだった。
「……どうしたんだ、こんな時間に」
「眠れないの」彼女は、俺の隣に立ち、同じように星空を見上げた。「ここって、すごいよね。世界で一番、未来に近い場所なんだって、みんな言う」
「……そうだな」
「でも」ひかりは、俺の顔を、じっと見上げた。「時々、思うの。私たち、未来に進んでるんじゃなくて、ただ、故郷から、遠ざかってるだけなんじゃないかなって」
その言葉は、俺の心の、一番柔らかい場所を、鋭く抉った。
俺は、娘に、何も答えることができなかった。俺たちが捨てた故郷の、その大地の上で、今も、多くの人々が、宇宙とは無関係の、日々の暮らしを営んでいる。俺は、その人々を守るために、ここにいる。だが、その人々の元へ、俺は、もう、帰ることはできないのかもしれない。
俺は、ひかりの肩を、そっと抱いた。
頭上では、天の川が、まるで巨大な傷跡のように、夜空を横切っている。
俺たちは、未来の英雄が生まれるための「揺りかご」を守るために、自ら、揺りかごの外へと、出てきてしまったのだ。




