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第三十七話

 男の焼身自殺は、乾いた社会に投げ込まれた、一本の松明だった。

 彼の遺書――『地上に残される者たちのための、最後の大義』と題されたそれは、瞬く間にインターネットの海を駆け巡り、ジェネシス計画という輝かしい光の裏側に溜まっていた、人々の不満と不安の澱に、一気に火をつけた。

 殉教者が、生まれてしまったのだ。


 宇宙開発省の空気は、鉛のように重かった。連日、対策会議が開かれ、俺もその末席に座っていた。だが、そこで交わされる言葉は、俺の心を苛立たせるだけだった。

「……極めて遺憾な事件だが、これは個人の選択の問題だ」

「広報戦略を強化し、ジェネシス計画がもたらす経済的恩恵を、国民にもっと分かりやすく説明する必要がある」

 彼らが議論しているのは、男の死そのものではなく、それがもたらす「政治的ダメージ」の計算だけだった。一人の人間の絶望が、冷たい数字とデータに変換されていく。


 その夜、重い足取りで家に帰ると、リビングのテレビが、例のニュースを繰り返し報じていた。男の、生前の写真。少し寂しげに笑う、どこにでもいる、普通の中年男性だった。

「……可哀想に」

 妻が、ぽつりと呟いた。

「彼が言っていることも、分かる気がする。毎日、月や火星のニュースを見ても、私たちの暮らしが楽になるわけじゃないもの。置いていかれる、って感じる人の気持ちも……」

「だが、間違っている!」俺は、自分でも驚くほど、強い口調で妻の言葉を遮っていた。「彼の言うことは、間違っている! ジェネシス計画は、逃避じゃない。未来を作るための、唯一の道なんだ!」


 妻は、驚いたように俺を見た。俺は、それ以上、何も言えなかった。本当の理由――130年後に迫る、人類の存亡を賭けた戦いのことなど、言えるはずがない。


 その時だった。

「ただいまー!」

 玄関のドアが開き、ひかりが、弾むような声で帰ってきた。アカデミーの最終選考を終えた帰りだった。その顔は、興奮と達成感で、紅潮している。

「パパ! 聞いて! 今日の最終試験、火星での緊急事態シミュレーションだったんだけど、私と、岡田君のチームが、最高得点取ったんだよ!」

 ひかりは、目を輝かせながら、仮想空間で自分たちがいかにして仲間を救ったかを、身振り手振りを交えて語り始めた。その姿は、俺たちが作ろうとしている、輝かしい未来、そのものだった。


 俺は、娘の眩しい笑顔と、テレビの画面の隅に映る、焼身自殺した男の、寂しげな笑顔とを、交互に見つめることしかできなかった。

 この、残酷なまでの、光と影のコントラスト。これこそが、俺たちが生きる、今の日本の姿なのだ。


 俺は、いてもたってもいられなくなった。

 答えを、求めなければならない。この計画の、本当の意味を。俺は、黒田さんに連絡を取り、無理を言って、ある人物との面会を取り付けた。


 翌日の深夜。俺は、京都の、古い寺の離れで、岡田前総理と、二人きりで向き合っていた。

 俺は、震える声で、彼に問いかけた。

「……あの男は、間違っていたのでしょうか。我々が進むこの道は、本当に、全ての人類を救うためのものなのですか。それとも、彼の言う通り、誰かの犠牲の上に成り立つ、残酷な選別に過ぎないのでしょうか」


 岡田は、静かに茶を一口すすると、言った。

「……彼は、間違ってはいない。そして、我々もまた、間違ってはいない」

「……どういう、意味ですか」

「彼は、この時代の、今の日本の、痛みそのものだ。彼の死は、我々の計画が、決して万能ではないという、動かぬ証拠だ。我々は、彼の死の重さを、一グラムたりとも、忘れてはならない」

 岡田は、俺の目をまっすぐに見た。


「だが」彼の声が、静かな、しかし、鋼のような強さを帯びた。「もし、ジェネシス計画がなかった未来を、君は知っているかね?」

 彼は、懐から、一枚のデータカードを取り出し、テーブルの上に置いた。

「『黒い箱』から、西田博士が復元した、もう一つの未来の断片だ。私が経験した、ジェネシス計画が存在しなかった場合の、21世紀末の地球の記録だ」


 俺は、そのカードを、震える手で受け取った。

「……見なさい。それが、我々が回避しようとしている、もう一つの地獄だ」


 俺が、携帯端末でそのデータを再生した瞬間。俺は、息をすることを忘れた。

 そこに映っていたのは、温暖化と資源枯渇の果てに、国家という枠組みが崩壊し、生き残った人々が、汚染された大地の上で、水と食料を奪い合って殺し合う、弱肉強食の世界だった。文明は、その光を失い、人類は、ただ、緩やかに、しかし確実に、絶滅へと向かっていた。


「……一人の男の、尊厳ある抗議の死と」岡田は、静かに言った。「何十億という、犬死に。私は、前者を選んだ。そして、君にも、選んでもらう」


 俺は、言葉を失い、ただ、端末に映る地獄絵図と、目の前の、静かな老人とを、交互に見つめていた。

 これが、大義の、本当の重さだった。

 それは、どちらを選んでも、必ず、誰かの命がこぼれ落ちていく、究極の選択。そして、より多くの命を救うために、少数の犠牲から、決して目を背けてはならないという、指導者の、孤独な覚悟。


「帰りなさい」岡田は言った。「そして、君の仕事を、続けなさい。君の娘が、そして、私の孫が、笑って生きていける未来のために」


 俺は、寺の石段を、おぼつかない足取りで下りた。

 もう、迷いはなかった。

 俺は、あの男の死の重さを、その一グラムの魂の重さを、生涯、背負って生きていこう。

 そして、その犠牲を、決して無駄にはしないために。俺は、この道を、進むしかないのだ。

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