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第三十六話

 2044年、春。

 世界は、新しい日常に慣れ始めていた。月面都市アルテミス・プライムの存在は、もはやニュースではなく、天気予報のように当たり前の情報となった。モニターに映る、低重力環境ですくすくと育つ、人類初の地球外生まれの子、ルナの姿は、少子化に沈む地球にとって、複雑で、しかし確かな希望の象徴だった。


 俺は、書斎の大きなモニターを三分割し、三つの世界を同時に見ていた。

 一つは、地球にいる妻と娘のひかりとの、週末のビデオ通話。高校生になったひかりは、相変わらず俺にそっけない態度を取りながらも、時折、画面の隅に映る俺の仕事の数式を、盗み見るように見ていた。

 一つは、月のアルテミス・プライムからの、ルナの定時健診データ。彼女の遺伝子に刻まれた、あの特異なマーカーは、西田博士をして「まるで、この宇宙で生き抜くために、あらかじめ最適化された設計図のようだ」と言わしめた。その謎は、まだ解けていない。


 そして、三つ目のモニター。それが今、俺の、そして人類の、最大の懸念だった。

 火星だ。


 半年前、赤い惑星に降り立った《閃き(ひらめき)》のクルーたちは、英雄だった。俺が誘導したヘラス平原で、彼らは「監視者サーベイヤー」の、巨大な地下エネルギー施設を発見した。世界は、地球外知的生命体の、動かぬ証拠の発見に熱狂した。だが、W12は、黒田さんと岸辺総理の巧みな情報統制によって、それが「活動の痕跡」ではなく、「今も稼働しているシステム」であるという、最も重要な事実を隠蔽することに成功していた。


 クルーたちの任務は、あくまで施設の外部調査に限定された。彼らは、自分たちが、眠れる竜の尻尾の、その先端を撫でているだけだとは、知る由もなかった。


 そして、彼らの半年間の任期が、終わりを迎えようとしていた、ある日のことだった。

 筑波の統合管制センターに、ヒラメキの船長、鎌田から、一本の通信が入った。


『こちら、ヒラメキ。ミッションの総仕上げとして、W12に一つ、提案したい』

 彼の顔は、使命感と、科学者としての純粋な探究心に燃えていた。

『我々の船には、予備の小型探査プローブが、一機搭載されている。帰還準備に入る前に、これを、当初の着陸予定地だった、オリンポス山の巨大洞窟へと、送り込むことはできないだろうか。着陸はさせず、内部の様子を撮影する、フライバイ(接近通過)観測だけでもいい。人類にとって、計り知れない価値があるはずだ』


 その提案を聞いた瞬間、イージス司令室の空気が凍りついた。

 来た。恐れていた、最悪のシナリオだ。鎌田の提案は、宇宙飛行士として、科学者として、あまりにも正しく、そして合理的だった。公の場では、誰も、これを否定することなどできない。

 だが、我々だけは知っている。その洞窟は、人類の知的好奇心を満たすための遺跡などではない。不用意に近づく者を、自動的に排除する、古代の罠なのだ。


 その夜、官邸で、緊急の極秘会議が開かれた。

「断固、却下すべきだ!」岸辺総理は、珍しく声を荒らげた。「クルーの命を、危険に晒すわけにはいかん!」

「ですが総理」黒田さんが、冷静に反論した。「理由もなく、英雄たちの、あれほど純粋な科学的探究心を、我々が一方的に却下すれば、必ず、疑念が生まれます。なぜ、あの場所にだけ、あれほど神経質になるのか、と。いずれ、我々が何かを隠していることに、気づく者が出てくるでしょう」


 進むも地獄、退くも地獄。

 俺は、唇を固く噛み締めながら、沈黙していた。そして、覚悟を決めて、口を開いた。


「……飛ばせましょう、プローブを」

 全員が、俺を見た。

「ただし」俺は続けた。「その操縦桿は、我々が握る」


 俺が提案したのは、悪魔の計画だった。

 表向きは、鎌田船長の提案を全面的に受け入れ、プローブの打ち上げを許可する。火星のクルー自身に、打ち上げと、洞窟への初期誘導を行わせる。

 だが、プローブがヒラメキの手を離れ、最終接近フェーズに入った瞬間。筑波の、このイージス司令室から、俺たちが、秘密のオーバーライド・コマンドを送り込む。

 そして、プローブの軌道を、意図的に、わずかに逸脱させるのだ。


「……つまり」岸辺総理が、ゴクリと唾を飲んだ。「事故に見せかけて、調査を失敗させる、ということか」

「そうです」俺は、肯定した。「プローブは、洞窟の入口に到達する直前で『原因不明の推進剤漏れ』を起こし、制御を失う。そして、洞窟から数キロ離れた、安全な平原へと、安全に不時着する。クルーたちには、残念な結果だったと謝罪する。だが、彼らの命も、我々の秘密も、守られる」


 それは、英雄たちを欺き、科学の進歩を、意図的に妨害するという、背信行為だった。だが、それしか、方法がなかった。


 数週間後。

 計画は、実行に移された。

 火星の、赤く乾いた大地から、小さなプローブが、ヒラメキのクルーたちの、希望と期待を乗せて、打ち上げられた。その行き先が、偽りのものであることなど、誰も知らない。


 俺は、イージス司令室で、その小さな光が、オリンポス山の巨大な闇へと、吸い込まれていくのを、ただ、見つめていた。

 そして、最終接近まで、残り数分となった、その瞬間。俺は、指先に全神経を集中させ、裏切りのコマンドを、エンターキーに、叩きつけた。


 俺は、科学者として、絶対にやってはならない罪を、今、犯している。

 だが、人類を、そして、まだ見ぬ未来の英雄を守る、盾として。俺は、この罪を、背負うしかなかった。

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