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第三十五話

 2043年、冬。

 その日、地球は、息を殺していた。

 テレビも、ネットも、全てのメディアが、たった一つの場所からの、か細い信号を、ただ待ち続けていた。38万km彼方の、月面基地アルテミス・プライム。その医療棟の一室。人類史上初めて、人が、地球の外で、新たな命を産み落とそうとしていた。


 筑波の統合管制センターは、静寂に包まれていた。だが、その静寂は、無数の電子の囁きで満たされていた。俺の目の前のコンソールには、月面基地の生命維持システム、電力供給、そして、母体である小松崎さんのバイタルデータが、ミリ秒単位で表示されている。俺の仕事は、この奇跡の瞬間に、いかなる技術的なノイズも混入させないこと。俺がかつて設計した《ガーディアン》プロトコルは、今、一人の赤ん坊を守るためだけに、その全能力を発揮していた。


「……心拍、わずかに低下。低重力下での、胎児への血流ストレスか」

 医療チーム主任の、冷静な声が響く。

「問題ない。想定の範囲内だ」

 ガラスの向こう側、無菌室にいる小松崎さんの、苦しそうな呼吸が、スピーカーから聞こえてくる。その手を、宇宙服を脱いだ夫の畑中が、固く、固く握りしめている。彼は、もはや英雄の宇宙飛行士ではなく、ただ、愛する妻の無事を祈る、一人の男だった。


 俺は、その光景から、目を逸らすことができなかった。

 神の真似事をして、彼らの運命を設計した、罪深き俺が。今、この、最も神聖な瞬間に、特等席で立ち会っている。


「……来る!」

 医師の声が、飛んだ。

 管制室の誰もが、息を呑む。俺は、いつの間にか、強く拳を握りしめていた。


 そして、その瞬間は、訪れた。

 静寂。

 完全な、数秒間の沈黙。

 その静寂を破ったのは、スピーカーから聞こえてきた、か細く、しかし、生命力に満ち溢れた、赤ん坊の泣き声だった。


『――オギャア、オギャア……!』


 その声は、38万kmの真空を越えて、俺たちのいる管制室に届いた。

 次の瞬間、部屋は、爆発的な歓声と、嗚咽と、拍手で、埋め尽くされた。見ず知らずの管制官たちが、国籍も肌の色も関係なく、互いに抱き合い、涙を流している。俺もまた、頬を熱いものが伝うのを、止めることができなかった。


 やがて、モニターに、疲れ果てた、しかし、至上の幸福に満たされた、畑中と小松崎さんの顔が映し出された。その腕には、小さな、小さな女の子が、健やかに眠っている。

「……ありがとう」畑中は、涙で声を詰まらせながら言った。「皆のおかげだ。……この子の名前は、『ルナ』です。この、月(Luna)で生まれた、人類の、最初の光です」


 ルナ。月の、最初の子。

 俺は、その小さな顔を、食い入るように見つめた。この子が、岡田前総理の孫と出会い、結ばれる。そして、その孫が、未来の英雄に……。

 俺は、自宅の書斎の壁に飾ってある、娘ひかりの写真と、モニターの中のルナの顔を、頭の中で重ね合わせた。俺が守るべき未来が、今、二つになった。


 数日後。

 世界中が、ルナの誕生という奇跡に沸き立つ中、俺のもとに、アルテミス・プライムの医療主任から、極秘の通信が入った。


『……主任。少し、気になるデータが』

 彼の声は、困惑していた。

『ルナの、健康診断データです。全て、正常値の範囲内です。ですが……遺伝子情報を、地球のデータベースと照合したところ、ごく僅かな、しかし、これまで報告例のない、特異なマーカーが見つかりました』

「……どういうことだ」

『骨密度と、放射線への耐性に関わる遺伝子です。まるで、我々、地球生まれの人間よりも、初めから、この宇宙環境に、最適化されているような……』


 俺は、言葉を失った。

 それは、ただの突然変異か。低重力環境への、人類の、新たなる進化の第一歩なのか。

 それとも……。

 岡田前総理が仕組んだ、未来の英雄へと繋がる血筋には、我々が知らない、何かもっと大きな秘密が、隠されているというのか。


 俺は、管制室のモニターに映し出された、健やかに眠るルナの、小さな寝顔を見つめた。

 この腕の中にいるのは、ただの赤ん坊ではないのかもしれない。

 俺は、自分が守ろうとしている未来が、自分の想像を、遥かに超えて、動き始めていることを、予感していた。

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