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第三十四話

 2043年、春。

 娘のひかりは、15歳になった。

 人類は、火星に第一歩を記していた。俺が誘導したヘラス平原に着陸した《閃き》のクルーたちは、そこで、岡田前総理の「黒い箱」が示した通りの、驚くべき発見をしていた。それは、異星の「監視者」の、巨大な地熱エネルギー施設だったのだ。今や、W12の科学者たちは、その解析に躍起になっている。


 世界は、月に、火星に、そして100年後の来訪者の謎に、熱狂していた。

 だが、俺の世界の中心は、半径数メートルの、この食卓にあった。そして、その世界は、今、静かな氷河期を迎えていた。


「……ひかり」俺は、目の前で、無言でフォークを動かす娘に、話しかけた。「来月の、進路相談のことなんだが」

「別に」ひかりは、俺と目を合わせずに、短く答えた。「もう、先生には話してあるから」

「……そうか。だが、パパにも、聞かせ……」

「パパには、関係ないでしょ」


 その言葉は、小さな氷のつぶてのように、俺の胸に突き刺さった。

 妻が、困ったような顔で、俺と娘の間を取りなそうとする。

「ひかり。パパも、あなたの将来を、心配して……」

「心配?」ひかりは、初めて、俺の顔をまっすぐに見た。その目には、俺が知らない、冷たい光が宿っていた。「いつも家にいなくて、何年も先の、火星の心配ばっかりしてる人が?」


 ぐうの音も出なかった。

 俺が、イージス計画の責任者として、地球と人類の未来を守るための、孤独な戦いを続けている間。ひかりの「今」は、容赦なく過ぎ去っていった。運動会も、授業参観も、ピアノの発表会も、俺はほとんど、そこにいてやることができなかった。俺の机の上には、娘からの「パパへ」と書かれた手紙の代わりに、最高機密の報告書が、常に山積みになっていた。


「……それで」俺は、声が震えるのを、必死でこらえた。「ひかりは、将来、何になりたいんだ?」


 ひかりは、ふいっと顔をそむけると、ぽつりと言った。

「……パティシエに、なりたい」

「……パティシエ?」

「そう」彼女は、少しだけ、挑戦的な目で俺を見た。「お砂糖と、バターと、小麦粉で作るの。人を、笑顔にする仕事。――ロケットみたいに、遠くに行ったりしない。火星みたいに、寒くて、誰もいない場所じゃなくて。ちゃんと、人のいる、暖かい場所で、自分の手で、甘いものを作るの」


 その言葉の一つ一つが、俺の人生そのものを、否定しているように聞こえた。

 俺は、娘を、家族を、そしてこの国を守るために、身を粉にして働いてきたはずだった。だが、その娘が一番求めていたのは、そんな大義名分ではなく、ただ、父親が、家にいてくれるという、ささやかな日常だったのだ。


 その夜、俺は久しぶりに、妻と二人で話をした。

「……嫌われちまったかな」

「当たり前でしょ」妻は、呆れたように、しかし、優しい声で言った。「あの子の世界は、まだ、この家と、学校が全てなんだから。その世界に、あなたがいないんだもの」

 妻は、淹れたてのコーヒーを俺の前に置いた。

「でもね」彼女は続けた。「あの子、あなたのこと、本当は、すごく尊敬してるのよ。学校の作文、読んだことある?『私のお父さんは、星と星の間に、道を作る仕事をしています』だって。……ただ、尊敬と、寂しさは、別の感情だから」


 翌日。俺は、何かに取り憑かれたように、仕事を早く切り上げた。そして、生まれて初めて、デパートの地下にある、有名なパティスリーの前に、一人で並んだ。色とりどりのケーキが、宝石のように、ショーケースの中で輝いている。


 俺は、一番大きな、イチゴのホールケーキを買った。

 ひかりの、15歳の誕生日には、まだ少し早い。だが、俺が埋めるべき時間は、あまりにも、多すぎた。


 家に帰り着くと、ひかりの部屋からは、明かりが漏れていた。俺は、深呼吸を一つして、ドアをノックした。

「……ひかり。ケーキ、買ってきたんだ」

 返事は、なかった。

 俺は、そっとドアを開けた。


 ひかりは、勉強机の上で、ペンを握ったまま、眠っていた。

 そのノートに、何が書かれているのか、俺は、見てしまった。

 それは、数学の、複雑な微分積分の数式だった。そして、その横に、小さな文字で、こう書かれていた。

『非ケプラー軌道における、重力ターン最適化の試算』。


 俺は、息を飲んだ。

 それは、俺が今、火星への次期輸送船のために、まさに格闘している、最新の軌道計算のテーマだった。

 ひかりは、パティシエになりたいと言った。だが、その指先が、今、必死に解こうとしているのは、世界で一番甘い夢ではなく、俺が解き続けている、世界で一番、難解なパズルだったのだ。


 俺は、静かにドアを閉めた。

 リビングのテーブルに、一人でケーキの箱を置く。

 娘は、俺の背中を、ずっと見ていた。そして、俺が想像もしていなかったほど、遠くまで、俺の背中を、追いかけてきていた。

 俺は、その夜、初めて、自分が守ろうとしている未来の、本当の重さを、知った気がした。

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