第三十一話
2038年、秋。
あれから、9年の歳月が流れた。世界は、変わった。
岡田前総理が遺した「黒い箱」の断片から生まれた核融合技術は、京都の小さな研究所から、世界を一変させる巨大な産業へと成長した。地球は、化石燃料の呪縛から解き放たれ、クリーンで無限に近いエネルギーを手に入れた。岸辺政権は、このエネルギー革命を追い風に、気候変動と経済危機という二つの嵐を、どうにか乗りこなしつつあった。
月面基地は、今や100人以上の科学者や技術者が暮らす、恒久的な都市となっていた。畑中飛行士は、その初代市長となり、地上から彼を支え続けた小松崎さんは、今や彼の妻として、月面で最初の子供を身ごもっていた。未来の英雄へと繋がる、小さな、しかし確かな命の灯火。俺が仕組んだ神の真似事の結末を、俺は父親のような、そして共犯者のような、複雑な思いで見守っていた。
そして俺は、W12宇宙開発省の、惑星間航行計画の総責任者となっていた。
俺の娘、ひかりは、もうすぐ10歳になる。彼女が生まれてから、俺は父親として、そして人類の未来を守る「イージス」計画のリーダーとして、二つの人生を必死に生きてきた。
敵の妨害は、あの帰還船への工作以来、ぱったりと途絶えている。まるで、嵐の前の静けさのように。
そして今日、人類は、ジェネシス計画の、次なる大きな一歩を踏み出す。
月周回ステーション《ゲートウェイ・Nexus》。その巨大なドックには、人類初の惑星間航行船が、静かに出発の時を待っていた。全長200メートル。核融合エンジンを搭載し、6名のクルーを乗せて、半年以上かけて火星を目指す、人類の新たな箱舟。
その船の名は、《閃き(ひらめき)》。
「こちら、ヒラメキ船長、カマタ。全システム、グリーン。いつでも行ける」
筑波の統合管制センターのメインスクリーンに、船長の鎌田の、自信に満ちた顔が映る。彼は、かつてのエース、結城の親友であり、JAXAが誇る最高のパイロットだ。
俺は、軌道計画の最終責任者として、静かにマイクのスイッチを入れた。
「こちら、軌道計画主任。ヒラメキの軌道、最終ロック完了。――君たちの道は、開かれた」
「感謝する」鎌田は、にやりと笑った。「半年後、火星で会おう」
それは、ただの挨拶ではなかった。俺は、このミッションの地上支援チームの総責任者として、半年後、彼らが無事に火星に到着したのを見届けた後、後続の船で、自らも火星へ向かうことになっていた。
メインスクリーンに、カウントダウンが表示される。
世界中が、この歴史的な旅立ちを見守っていた。地球から、月へ。そして、月から、火星へ。ジェネシス計画が描いた、壮大な梯子を、人類は今、一段、また一段と、着実に登っている。
「……5、4、3、2、1……メインエンジン、点火」
ゲートウェイ・Nexusから、閃きは、音もなく離れていった。核融合エンジンが放つ青白い光が、月の灰色の地表を、幻想的に照らし出す。それは、あまりにも静かで、あまりにも美しい、人類の船出だった。
管制室が、万雷の拍手に包まれる。俺は、その光景を、万感の思いで見つめていた。
その、まさにその瞬間だった。
俺の耳につけられた、イージス計画専用のインカムから、西田博士の、切羽詰まった声が聞こえてきた。
『――見つけたぞ! 『黒い箱』の、最も深い階層にロックされていた、最後の破損データを、ついに復元した!』
「博士、今それどころじゃ……」
『聞け! これは、岡田先生が経験した「最初の時間軸」の、第一次火星有人探査の、最後の通信記録だ!』
俺は、心臓が凍りつくのを感じた。メインスクリーンの華やかな光景から、意識が急速に引き戻される。
西田博士が、震える声で、復元されたテキストを読み上げた。
『……火星軌道、到達。着陸、成功。地表探査、全て順調……オリンポス山の巨大な洞窟へ、第一次調査……我々は、間違っていた……』
ノイズ混じりの、短いテキスト。
『……この星は、空っぽなんかじゃ、なかった……。奴は、ずっと、待って……』
そこで、記録は途切れていた。
「……奴?」俺は、かすれた声で聞き返した。「奴とは、誰です?」
『分からん!』西田博士は叫んだ。『だが、これだけは分かる! 岡田先生が本当に恐れていた未来の危機とは、130年後にやってくる来訪者だけではなかった! 火星に、何かがいる! 我々が知らない、何かが!』
俺は、メインスクリーンに視線を戻した。
青白い光を放ちながら、赤い惑星へと向かって、一直線に突き進んでいく、小さな、小さな光点。
俺たちが、今、祝福と共に送り出した、人類の希望の船。
俺は、気づいてしまった。
自分は、人類最高の英雄たちを、栄光の地へと送り出したのではない。
何も知らない彼らを、古い地図に記された、ドラゴンの巣の中へと、送り込んでしまったのだ。




