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第三十話

 畑中飛行士たち、第一次月面長期滞在クルーの地球帰還が、三週間後に迫っていた。

 アルテミス・プライム基地は、彼らの手によって、もはや単なる前哨基地ではなく、人が暮らす「村」へと育っていた。月面での野菜栽培は軌道に乗り、地質調査からは、予想以上の資源データがもたらされた。ジェネシス計画は、公の顔としては、完璧な成功を収め続けている。


 その日の深夜、俺はイージス司令室で、帰還船の最終的な軌道計画を詰めていた。すると、最高レベルの暗号化が施された、月からの個人回線が開かれた。畑中飛行士からだった。


『……主任。夜分に、申し訳ありません』

 モニターに映る彼の顔は、いつもの実直な宇宙飛行士のものではなく、ただの、恋に悩む一人の男の顔をしていた。

『その……地球に帰ったら、小松崎さんに、自分の気持ちを伝えようと、思っています』

 俺は、思わず笑みがこぼれるのを、必死でこらえた。自分が、この歴史的な告白の、仕掛け人であるという罪悪感を、心の奥底に押し込めて。

「……いいじゃないか。素晴らしいことだ」

『ですが……何を、どう言えばいいのか、全く……。主任、何か、アドバイスをいただけないでしょうか』


 そこから三十分、俺は、人類史上、最も奇妙で、最も重要な恋の相談に乗ることになった。38万kmの距離を越えて、俺は畑中の不器用な言葉を一つ一つ解きほぐし、彼自身の純粋な気持ちを、どうすれば彼女に伝えられるかを、共に考えた。それは、どんな軌道計算よりも、複雑で、そして温かい時間だった。


 だが、その温かい時間の裏で、冷徹な陰謀は、静かに進行していた。


 翌日、俺は帰還船の大気圏突入モジュールの最終チェックを行っていた。制御プログラムは、W12の協定に基づき、アメリカの管制チームが作成したものを、俺たちが最終承認する形になっている。プログラムは、何千回ものシミュレーションを、完璧な精度でクリアしていた。――完璧すぎるほどに。


 違和感があった。ごく僅かな、ノイズのようなもの。俺は、西田博士に協力を要請し、プログラムの深層を、AIを使って解析した。

 そして、俺たちは、その悪魔的な罠を発見した。


「……トロイの木馬だ」西田博士が、唸るように言った。「通常は何もしない。だが、大気圏突入中に、特定の周波数で、ごく短い信号トリガーを受け取ると、この隠されたコードが起動する」

 そのコードが実行されると、着陸誘導プログラムにごく僅かな誤差が生じ、帰還船は予定着陸地点である日本の海上から、数百キロも離れた、太平洋の公海上へと逸れてしまう。

「……そして、その予測着水地点のすぐそばで」俺は、別のモニターに表示された、全世界の船舶航行データの中から、一本の不審な船を指し示した。「アメリカ国籍の、大型の海洋調査船が、一週間前から、待機している」


 殺すのではない。奪うのだ。

 畑中飛行士を「事故」に見せかけて確保し、彼がなぜこれほどまでに重要人物なのか、そして日本が何を隠しているのかを、全て吐かせるつもりなのだ。前回の直接的な攻撃が失敗した敵が、より巧妙で、政治的な罠を仕掛けてきたのだ。


 俺は、黒田さんにだけ、この事実を報告した。

「……どうする」黒田さんは、静かに尋ねた。「この陰謀を公にすれば、W12は崩壊するぞ」

「公にはしません」俺は答えた。「静かに、このラブレターを、正しいポストへ届けるだけです」


 俺は、軌道計画主任の権限を使い、アメリカのチームに、こう通達した。

「上層大気の最新の観測データを元に、突入角度の最終微調整を行う。よりクルーへのG(重力加速度)負担が少ない、新しい誘導プログラムを、こちらで実装する」

 それは、誰にも文句のつけようがない、正当な修正案だった。

 そして、俺は西田博士と共に、三日三晩、徹夜で、敵が仕掛けたトロイの木馬を完全に無力化し、かつ、より高精度な、完璧な帰還プログラムを、その上から上書きした。


 そして、帰還の日。

 世界中が見守る中、帰還船は、燃える流星となって、地球の大気圏へ突入した。管制室は、緊張に包まれる。俺だけが、アメリカの管制官たちが、今まさに、失敗に終わるトリガー信号を送っているであろうことを、知っていた。

 だが、帰還船は、俺が描いた、ただ一つの正しい軌道の上を、寸分の狂いもなく進んでいく。


 夕日に染まる太平洋上に、美しいパラシュートが花開いた。帰還船は、まるで羽毛のように、穏やかに着水した。日本の回収部隊が、歓喜の声と共に、船へと駆け寄っていく。

 遠く離れた水平線の向こうで、一隻の海洋調査船が、静かにその場を離れていくのを、俺は衛星画像で確認していた。


 その夜。ガイアーズ・ポートのメディカルセンター。

 全てのチェックを終えた畑中が、少しおぼつかない足取りで、待合室へと入ってきた。そこには、ガラス越しに、小松崎さんが、涙を浮かべて立っていた。


 畑中は、インターカムのマイクを握りしめた。

「……小松崎さん」彼は、俺と練習したどんなセリフとも違う、彼自身の言葉で、話し始めた。「月は、とても静かで、美しい場所でした。でも、俺は、気づきました。どんなに美しい景色も、それを見て、すごいねって、一番に伝えたい人がいないと、ただの、寂しい絵なんだって」

 小松崎さんが、両手で口を覆った。


「俺は、あなたに、一番に伝えたかった。だから……帰ってきました」

 畑中は、一歩、ガラスに近づいた。

「俺と、結婚してください」


 小松崎さんは、嗚咽を漏らしながら、何度も、何度も、頷いた。

 やがて、隔離期間を終えた二人が、夕日の中で、初めて抱き合い、キスを交わす光景を、俺は遠い管制室のモニターから、一人、静かに見守っていた。

 未来の英雄へと繋がる、世界で一番遠いラブレターは、確かに、届けられたのだ。

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