第三話
一週間が、一世紀のように過ぎた。
俺のディスプレイには、太陽を中心に据えた、無数の楕円が蜘蛛の巣のように張り巡らされていた。地球、月、火星、そして準惑星ケレス。それらは静止した点ではない。それぞれが異なる速度で、異なる傾斜角で公転している。動く拠点から、動く拠点へ、最小のエネルギーで物資を運ぶための最適解。それは、神の領域に属する計算だった。
これまでの軌道計算は、いわばA地点からB地点への片道切符を求める作業だった。だが、黒田が要求しているのは、太陽系規模の「山手線」を設計しろというに等しい。しかも、駅も線路も、常に動いている。月で作った燃料を、いつ、どれだけ、どのルートで火星へ送れば、地球から向かう次のクルーとタイミングが合うのか。思考の迷路にはまり込み、カフェインと疲労で脳が焼き切れそうだった。
「おい、始まるぞ」
背後から、推進系の白髪部長の声がした。見れば、部署の誰もが手を止め、壁にかけられた大型モニターを見上げている。スイス・ジュネーブ。国連欧州本部の、最も大きな会議場。スクリーンには、W12の12の旗が荘厳に並び立っていた。
俺は立ち上がり、冷めたコーヒーを一口飲んだ。胃が小さく痙攣する。画面の中で、各国の代表が一人、また一人と、中央の演台へ向かって歩みを進めていた。アメリカのジョーカー大統領、中国の主席、ESAの長官、そして、岡田総理。誰もが硬い表情で、歴史の証人となる覚悟を決めているように見えた。
ディスプレイの中で計算途中の、赤い軌道線が点滅している。地球から月へ向かう、最も基本的な遷移軌道。これを計算するだけでも、何十もの変数と格闘しなければならない。だが、テレビの向こうの彼らは、まるでそれが確定した未来であるかのように語り始める。そのギャップが、俺を眩暈させた。
最初にマイクの前に立ったのは、アメリカ大統領だった。
「……我々は、星条旗を月面に立てるためにここに来たのではない。人類という一つの旗を、太陽系に立てるために来たのだ」
力強い演説だった。だが、俺の頭の中では、彼の言葉はアルゴノート・ロケットの莫大な開発費と、それに伴う政治的リスクの数値に変換されていく。
次に、中国主席が、自国語でゆっくりと語り始めた。同時通訳の冷静な女性の声が重なる。
「天は、分かち合うために存在する。我々が築く宇宙ステーションは、壁ではなく、全ての国に開かれた窓となるでしょう」
その言葉を聞きながら、俺はテラ・アンカーのモジュールを繋ぐドッキング装置の統一規格「UDS-25」の、膨大な仕様書のことを考えていた。窓の前に、まず扉を作らねばならないのだ。
そして、岡田総理が演台に立った。彼は、他の誰とも違った。各国の首脳が未来への希望を語る中、彼は、人類が直面する危機の話を始めた。
「我々には、時間が残されていない。地球という揺りかごは、永遠ではない。我々が今日ここにいるのは、夢を語るためではない。来るべき危機から、我々の子どもたち、そして孫たちの世代を守る義務を果たすためです」
その言葉は、俺がディスプレイの上で格闘している計算と、初めて地続きになった気がした。これは夢物語ではない。締め切りのある、巨大なプロジェクトなのだ。
やがて、12人の代表が横一列に並んだ。岡田総理が中央に進み出て、一枚の羊皮紙のような巻物を広げた。
「これより、世界宇宙開拓評議会、W12共同宣言を、世界の皆さんに発表します」
静まり返った会議場で、総理の凛とした声が響き渡る。
『W12 ジュネーブ共同宣言』
一、我々W12加盟国は、地球が人類にとってかけがえのない故郷であると同時に、文明の揺りかごであることを認識し、その揺りかごから旅立つ時が来たことを、ここに宣言する。
一、我々は、宇宙空間が特定の国家に帰属するものではなく、全人類の共通財産であることを確認し、その平和的利用と、資源の公平な分配を誓う。天は、新たな対立の舞台となるべきではない。
一、我々は、国家、民族、文化の違いを乗り越え、ジェネシス計画の下に知と力を結集する。その第一歩として、地球、月、火星を結ぶトライステラ・ネットワークを構築し、人類を多惑星種へと進化させる。
一、我々は、この偉大な事業が、地上の課題から目を背けるためのものではないことを約束する。宇宙で得られる新たな技術、資源、そして視点は、地球が抱える貧困、環境、エネルギーといった問題の解決に貢献するものである。
一、我々は、未来の世代に対し、無限の可能性と、持続可能な文明を継承する責任を負う。
本日、この日、この瞬間より、人類は一つのチームとして、新たな創世記のページをめくる。
宣言が読み上げられると、議場は万雷の拍手に包まれた。世界中の指導者たちが、互いに握手を交わしている。歴史が動く瞬間を、俺はJAXAの片隅で、ただ呆然と眺めていた。
モニターが、各国のニュース速報に切り替わる。どこもトップニュースだ。だが、俺はもう見ていなかった。自分の席に戻り、椅子に深く沈み込む。ディスプレイの赤い軌道線が、まるで心電図のように点滅している。
ポケットの中で、スマートフォンが震えた。妻からの、短いメッセージだった。
『お疲れ様。世界、変わるのかな』
俺は、返信が打てなかった。代わりに、キーボードに手を伸ばす。ディスプレイの片隅に、小さな計算ウィンドウを開いた。
――火星基地の年間酸素消費量、推定800トン。
――それを、月の水から製造するために必要な、電気分解のエネルギー量。
――そのエネルギーを生み出す、月面太陽光パネルの必要面積。
世界は、まだ何も変わっていない。変えるのは、これからだ。俺たちの、仕事だ。
俺はキーを叩き、太陽系規模の山手線の、最初の駅の設計に取り掛かった。




