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第二十九話

 2029年、秋。その日、運命の歯車は、地上と月、二つの舞台で同時に回り始めた。


 京都。紅葉が始まった古都で、岡田前総理は、自身の名を冠した財団の設立記念講演会に登壇していた。表向きは穏やかな学術フォーラム。だが、その裏で、俺たち「イージス」チームと、黒田さんが率いる公安の精鋭たちが、見えない敵の影を追い続けていた。岡田の暗殺計画。それは、陽動だと分かっていても、現実の脅威であることに変わりはなかった。


 そして、その同じ時間。38万km彼方の月面、アルテミス・プライム基地では、畑中飛行士が、新型の地質調査ユニットを設置するため、人生で最も困難な船外活動(EVA)に臨んでいた。設置場所は、基地から数キロ離れた、通信が不安定なクレーターの縁。彼の命綱は、筑波の管制センターにいる小松崎技術者の、的確な指示だけだった。


 俺は、イージス司令室で、二つの戦場の情報を、同時に監視していた。片方のモニターには、京都の会場周辺の監視カメラ映像と、不審な通信の傍受記録。もう片方のモニターには、月と地球を結ぶ、畑中と小松崎の、静かな交信が表示されている。


『ハタナカより。これより、第一ドリルの削岩を開始する』

『了解、コマツザキです。バイタル、地質データ、全て正常。あなたのペースで、慎重に』


 二人の声は、プロフェッショナルでありながら、この一年で培われた、確かな信頼と絆が感じられた。俺が仕組んだ、神の真似事。その結果が、今、ここにある。


 事件は、まず地上で起きた。

「京都で動きがあった!」部下の一人が叫んだ。「会場周辺の交通管制システムが、外部からハッキングされています! 信号が滅茶苦茶だ! 警備車両の到着が遅れる!」

 陽動が始まった。この混乱に乗じて、敵は岡田に接近するはずだ。黒田さんのチームが、一気に動き出すのが、別のモニター越しに分かった。


 だが、俺は、その陽動の裏にある、本当の凶弾に備えていた。

「……来るぞ」

 俺が呟いた、その瞬間だった。


 JAXA筑波宇宙センターの、メインコントロールルームの照明が、一瞬、またたいた。

「なんだ?」「電力系統にサージ発生!」「予備電源に切り替わ……らない! ショートしたぞ!」

 悲鳴のような声が、あちこちから上がる。

 俺の目の前のモニターでは、月とのメイン通信回線のデータ転送量が、急速にゼロへと落ちていくのが見えた。冷却システムの異常を示す、赤い警告が、画面を埋め尽くしていく。


 敵の、本命だ。


『コマツザキ! 聞こえるか! スーツの温度が急上昇している! テレメトリが……』

 畑中の、焦った声が、ノイズの向こうで途切れた。

『ハタナカさん! 応答して! こちらの声が聞こえますか!』

 小松崎さんの、悲痛な叫びが響き渡る。月面で、たった一人、孤独な危機に陥ったパートナー。そして、それを助ける術を、まさに奪われようとしている自分。


「……今だ」

 俺は、この日のために用意していた、最後の切り札のコマンドを、エンターキーに叩きつけた。

『ヤタガラス・リレイ、緊急起動。通信経路を、メインからサブへ、強制切り替え』


 筑波のメインコントロールルームでは、月との通信が完全に途絶し、FDが絶望的な顔で頭を抱えていた。

 だが、その数秒後。

 小松崎さんのコンソールだけが、奇跡のように、再び月との接続を回復した。俺が、二人の「お見合い」のために用意した、W12の誰にも知られていない、秘密の通信衛星。その細い糸が、今、二人の命綱となった。


『……聞こえる……! ハタナカさん! 私の声が聞こえますか!』

『……ああ、聞こえるぞ! よかった……!』


 小松崎さんは、涙声になりながらも、即座にプロの顔に戻った。

『スーツの冷却システムに、月面の細かな砂塵レゴリスが詰まった可能性があります! 今から言う手順で、予備の循環ポンプを起動してください!』

 彼女は、パニックに陥ったメインコントロールルームの喧騒を背に、たった一人で、月面のパートナーを救うための戦いを始めた。


 一時間後。

 二つの戦いは、ほぼ同時に、終わりを告げた。

 京都では、黒田さんのチームが、混乱に乗じて岡田前総理に接近しようとした実行犯を、寸前で確保した。

 そして、宇宙では、小松崎さんの的確な指示により、畑中飛行士は無事に危機を脱し、ミッションを完遂した。


 俺は、イージス司令室の椅子に、深く沈み込んだ。勝った。二つの凶弾から、守り抜いたのだ。

 その時、西田博士が、俺の隣で、今回のサイバー攻撃のログを解析していたモニターを、食い入るように見つめていることに気づいた。

「……どうしました?」

「……おかしい」博士は、震える声で言った。「この攻撃に使われたコードの、根本的な構造が……我々人類が使う、どんなプログラミング言語とも、異なっている……」

 彼は、俺の方を向き、信じられない、という顔で言った。


「このコードの論理構造は……我々が、あの『黒い箱』から復元した、来訪者たちの、言語構造と……不気味なほど、よく似ている……」


 俺は、全身の血が凍りついた。

 俺たちが戦っていた敵は、ただの人間ではなかったのか。

 では、一体、誰が。あるいは、何が、俺たちの計画を、妨害しているというのだ。

 勝利の安堵は、一瞬で、底知れぬ恐怖へと変わっていった。

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