第二十八話
それからの数ヶ月、俺はまるで二つの異なる人生を同時に生きているようだった。
昼は、イージス司令室で、南海トラフ沿岸の微小な地殻変動データを睨みつけ、来るべきXデーに備えて避難経路や物資輸送のシミュレーションを繰り返す。
そして夜は、月にいる畑中飛行士と、地上にいる小松崎技術者の、ささやかな交流を、神のような視点から見守っていた。
二人の関係は、ゆっくりと、だが確実に育まれていた。始めは仕事の話だけだったが、やがて、故郷の話、好きな音楽の話、そして、宇宙から見た地球の美しさについて、俺が用意した「特別な通信衛星」を通じて、語り合うようになっていた。それは、俺が仕組んだ、あまりにも不自然で、そしてあまりにも自然な、奇妙なロマンスだった。
俺は、未来の英雄が生まれるための揺りかごを準備する罪悪感と、二人の間に芽生える純粋な絆への、父親のような温かい感情との間で、引き裂かれていた。
そして、運命の日は、ある晴れた春の日の午後に、何の前触れもなく訪れた。
「――緊急地震速報!」
イージス司令室の全てのモニターが、瞬時に赤く染まり、けたたましい警報音を鳴り響かせた。
「震源、南海トラフ! マグニチュード、9.1!」
岡田前総理の予言は、現実となった。
巨大な揺れが、ここ筑波の地下深くまで届く。数秒後、関東一円の電力網が落ち、司令室は非常用電源の薄暗い赤色灯に包まれた。
メインスクリーンには、次々と絶望的な情報が映し出される。沿岸部を飲み込む、黒い津波。寸断された道路。そして、完全に麻痺した、地上の通信網。電話も、インターネットも、もう繋がらない。
「黒田さん!」俺は叫んだ。「例の衛星を!」
「やれ!」黒田さんの、鋼のような声が響いた。「今こそ、八咫烏が、日本の目となり、耳となる時だ!」
俺は、予行演習通りに、コマンドを打ち込んだ。俺が、畑中と小松崎のために用意した、あの特別な中継衛星。その通信帯域を、日本の災害対策本部へと、全開で接続する。
その瞬間、暗闇に閉ざされていた日本の上に、宇宙からの、たった一本の命綱が、再び繋がった。
「小松崎君は無事か!」俺は、部下に怒鳴った。彼女の実家は、被災地の中心だった。
「無事です! 彼女は今、筑波のメインコントロールルームで、衛星通信の確保にあたっています!」
その時、ヘッドセットから、月の畑中飛行士の、切羽詰まった声が聞こえてきた。
『こちら、アルテミス・プライム! 地上の様子が見える! なんてことだ……日本が、黒く……』
彼は、人類でただ一人、この大災害の全体像を、その目で直接見ていた。
「畑中飛行士!」俺は、彼に直接呼びかけた。「小松崎技術者と回線を繋ぐ! 君のその目から見える情報を、彼女に伝えろ! 彼女なら、それを解析し、救助隊が必要な場所を特定できるはずだ!」
かくして、歴史上、最も遠く、最も奇妙な共同作業が始まった。
月面基地の小さな窓から、畑中は、地球を見つめた。津波の進行方向、孤立した地域の分布、そして、地上の誰もがまだ気づいていない、二次災害の兆候。
『……四国の山間部だ!』畑中が叫んだ。『大規模な山崩れが起きている! あれは、麓の村へ向かっているぞ!』
その声は、衛星を経由し、筑波の小松崎さんの元へ届く。
『了解! 座標を特定! あの村には、まだ避難勧告が出ていません! 急いでヘリを向かわせます!』
彼女は、悲しみに暮れる暇もなく、畑中から送られてくる情報を、冷静沈着に、救助隊のための具体的な指示へと変えていく。
一人は、38万km彼方の月から、故郷の悲劇を見つめ、声を張り上げる。
もう一人は、地上で、その声だけを頼りに、見えざる同胞を救うために、キーボードを叩き続ける。
俺は、二人の、悲痛で、そしてあまりにも美しい、魂の交信を聞いていた。
俺が、不純な動機で用意した命綱は、今、本当に、多くの人々の命を救っている。
数時間後。山崩れに襲われる寸前だった村から、全住民の救出が完了したという報告が入った。
ヘッドセットから、小松崎さんの、すすり泣く声が聞こえてきた。
『……ありがとう、ございます……畑中さん……。あなたの、おかげで……』
『礼を言うのは、俺の方だ』畑中の、震える声が答えた。『俺は、何もできずに、ここから見ていることしかできなかった。君が、俺の目を、本当の「希望」に変えてくれたんだ』
その瞬間、俺は、全てを悟った。
岡田前総理は、ただ、二人が出会うという「事実」だけを求めていたのではない。
この、極限状況の中で、互いの存在の重要性を、魂のレベルで理解し合うという、「経験」こそが必要だったのだ。
悲劇の中で、未来の英雄の両親となるべき二人の絆は、俺が計画したどんなシナリオよりも、強く、そして固く、結ばれた。
俺は、静かに司令室を抜け出し、空を見上げた。
星々は、変わらず輝いている。
運命とは、誰かが設計するものではない。ただ、そこにある危機に、懸命に立ち向かう人々の、心の軌跡そのものなのかもしれない。




