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第二十七話

 2029年、初秋。

 岸辺総理が、テレビカメラの前で厳しい顔で語っていた。『異次元の少子化対策』と銘打たれた、政府の新たな国家戦略。その言葉だけが、空虚にリビングに響いていた。


「……異次元、ね」

 妻は、床で積み木を組み立てている娘のひかりを見ながら、皮肉とも諦めともつかない声で言った。

「私たちの世代が子供の頃は、公園に行けば誰かがいた。でも、この子が大きくなる頃には、どうなっているのかな」


 その言葉は、今の日本を覆う、静かな絶望の空気を的確に表していた。ジェネシス計画という壮大な未来像が日々報じられる一方で、この国の現実は、音もなく縮小し、老い続けていた。生産年齢人口は減り続け、社会保障のきしみは限界に達している。未来への希望は宇宙にあるのかもしれないが、人々の暮らしの足元は、ゆっくりと沈み続けていた。


 俺は、何も答えられなかった。

 この国の、そして人類の未来を救う鍵が、たった一組の男女の出会いにかかっているなどと、どうして妻に話せるだろうか。そして、その出会いを、俺自身が今、神の視点から演出しようとしていることなど。


 俺の仕事場は、筑波のJAXA本部と、官邸地下のイージス司令室、そして自宅の書斎という、三つの点を結ぶ歪な三角形になっていた。

 JAXAでは、八咫烏計画の軌道計画主任として、月面基地アルテミス・プライムへの人員と物資の輸送計画を指揮する。世界中が注目する、華やかな表の顔だ。

 だが、イージス司令室での俺の本当の仕事は、その膨大なミッション計画の中に、極めて個人的な、ある「確率」を最大化するための変数を、誰にも気づかれずに埋め込むことだった。


「――この、畑中飛行士が担当する月面地質調査だが」俺は、部下たちが並ぶ会議室で、平静を装いながら言った。「ローバーでの探査には、リアルタイムでの地上からの専門的な支援が不可欠だ。開発責任者である、小松崎技術者のチームに、専門の支援コンソールを割り当てる。通信は、ラグランジュポイントに設置した新設の中継衛星を経由させろ。帯域が最も安定している」


「しかし主任」若い部下が、いぶかしげに尋ねた。「その衛星回線は、まだ試験段階のはずでは? 既存の回線を使った方が……」

「試験を兼ねるんだ」俺は、有無を言わせぬ口調で遮った。「これは決定事項だ」


 俺が設計しているのは、技術的に最も優れた通信経路ではない。畑中飛行士と小松崎技術者が、二人きりで、誰にも邪魔されずに、直接対話する時間を、最大限に確保するための「舞台装置」だった。未来の英雄が生まれるための、揺りかご。その確率を、ほんの僅かでも上げるために、俺は国家のインフラを私物化しているのだ。罪悪感で、吐き気がした。


 その間にも、ジェネシス計画の公の顔は、着実に前進していた。

 俺たちが一年前に打ち上げた火星探査艦隊は、ついに赤い惑星の周回軌道に到達し、オリンポス・ビレッジ建設のための、詳細な地表マッピングを開始した。そのニュースは、少子高齢化の暗い話題に覆われた日本で、数少ない明るい光として報じられた。


 そして、運命の日が訪れた。

 第一次月面長期滞在クルー六名を乗せた宇宙船が、アルテミス・プライムへの着陸に成功した。その中には、何も知らずに、歴史の歯車としての役割を担わされた、畑中飛行士の姿があった。


 一週間後。イージス司令室。

 俺は、ヘッドセットをつけ、固唾を飲んでモニターを見つめていた。畑中飛行士が、初めて月面ローバーに乗り込み、基地から数キロ離れたクレーターの調査へ向かう。そして、筑波の管制センターでは、小松崎技術者が、彼の目の前に座っている。二人の、最初の共同作業。


『……こちらハタナカ。ポイントB-7に到達。目の前に、高さ3メートルほどの、斜長岩の露頭を確認』

 畑中の、少し緊張した声が、月面の静寂を破った。


『……了解しました、ハタナカ飛行士』ヘッドセットから聞こえる小松崎さんの声は、冷静で、プロフェッショナルそのものだった。『ローバーのマルチスペクトルカメラを起動し、露頭の組成分析を開始してください。こちらの指示通りに、スキャンをお願いします』


 二人の会話は、しばらくの間、専門用語だけが飛び交う、無機質なものだった。俺は、ただ祈るような気持ちで、そのやり取りを聞いていた。神よ、どうか。


 数分後、スキャンが一段落した時だった。

『……すごいな』畑中が、ふと、独り言のように呟いた。『ここから見る地球は。写真や映像で何度も見てきたはずなのに……。全然、違う。本当に、浮かんでるんだな。あの青いビー玉の中に、70億人もいるなんて、信じられない』


 その言葉に、小松崎さんが、ふふっ、と小さく笑う気配がした。

『……私の父が、昔、よく言っていました』彼女は、少しだけ柔らかい声で言った。『人間は、故郷を一度離れてみて、初めて故郷の本当の姿を知るんだって。――畑中さん、今、地球で一番、故郷の美しさを知っているのは、あなたですね』


 その瞬間、二人の間に、何かが通ったのを、俺は確かに感じた。

 それは、恋などという、生易しいものではない。同じ場所から、同じ奇跡を見つめる者同士の、魂の共振。未来の英雄へと繋がる、最初の、か細い糸が紡がれた瞬間だった。


 俺は、ヘッドセットを外し、大きく息を吐いた。全身から、力が抜けていく。

 その時、机の上の、暗号化された端末が、静かに着信を告げた。黒田さんからだった。


『……聞いたかね』

「はい」

『第一フェーズは、成功だ。だが、安堵するのは早い』

 黒田さんの声が、急に険しくなった。

『岡田先生からの、新たな警告だ。例の地震の発生確率が、危険水域に入った。そして、先生の未来の記録によれば……その時、君が今セッティングした、あの中継衛星が、決定的な役割を果たすことになるらしい』


「……どういう、意味ですか」

『分からん。だが、君が“お見合い”のために作ったあの細い糸が、今度は、日本を救うための命綱になるのかもしれんということだ』


 俺は、言葉を失った。

 自分のしたことが、全く予期せぬ形で、もう一つの未来――すぐそこまで迫っている、大地の怒りと、結びつこうとしていた。

 運命の歯車は、俺の想像を遥かに超える場所で、複雑に絡み合いながら、回り始めていた。

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