第二十六話
2029年、冬。
京都で生まれた小さな太陽――片山博士の核融合炉は、まだ試験段階でありながらも、世界のエネルギー地図を塗り替える希望の光となっていた。だが、地球そのものが、熱病から快復する兆しはなかった。米騒動は、政府の巧みな配給制度と、W12の国際的な食料支援によってどうにか鎮静化したが、人々の心には、明日をも知れぬ不安が澱のように沈殿していた。
その日、俺は再び、官邸の地下深く、岸辺総理の前に立たされていた。だが、部屋の主役は、総理ではなかった。ソファに深く腰掛け、まるで隠居した老人のように静かに茶をすすっている、岡田前総理。彼が、俺と黒田さんを呼び出したのだ。
「岸辺君」岡田は、湯呑みを置き、静かに言った。「君に、二つ、未来の『記録』を渡しておく」
黒田さんが、二つのデータチップを岸辺総理の前に置いた。
「一つは、吉報だ。――二年後、君たちが今、準備を進めている火星への無人探査艦隊は、完璧な成功を収める。人類は、火星に最初の礎を築くことになるだろう」
岸辺は、わずかに安堵の表情を浮かべた。ジェネシス計画の公の顔である火星ミッションは、彼の政権の大きな功績となるはずだった。
「そして、もう一つは……凶報だ」
岡田の目が、鋭い光を宿した。
「今から、およそ一年半後。南海トラフを震源とする、マグニチュード9.1の巨大地震が発生する。我が国は、建国以来、最大の国難に直面することになる」
執務室の空気が、凍りついた。岸辺総理の顔から、血の気が引いていくのが分かった。
「……何を、根拠に」
「私が“見てきた”という以上の、根拠はない」岡田は、静かに答えた。「信じるか、信じないかは、君が決めることだ。現職の総理大臣は、君なのだからな。ただし、一つだけ言っておこう。私が総理だった頃に進めた『第二次列島改造計画』――あれは、この日のために、主要都市のインフラとサプライチェーンを、少しでも強靭にしておくための、時間稼ぎに過ぎん」
岸辺は、わなわなと震える手で、データチップを握りしめた。彼は、この国を未曾有の災害から守るという、指導者として最も重い責務と、国家を大パニックに陥らせかねないというリスクとの間で、引き裂かれていた。
その二週間後。
JAXAでは、月面基地への、第一次長期滞在クルーの最終選考が、大詰めを迎えていた。基地のシステムを熟知し、船長としての資質も持つ、JAXAのエース飛行士である結城。誰もが、彼が選ばれると信じて疑わなかった。
だが、決定が下された日、管制室は、困惑と、かすかな怒りに包まれた。
船長として選ばれたのは、結城ではなかった。総合評価では常に二番手だった、畑中という、実直だが華やかさに欠ける、地味な男だったのだ。
「なぜだ!」「政治判断か!」という声が、あちこちで囁かれた。
その日の夜、俺は黒田さんに呼び出された。
「納得できないか」黒田さんは、俺の心を見透かすように言った。
「当たり前です。畑中も優秀ですが、結城の方が……」
「岡田先生の、ご意向だ」
黒田さんは、俺の言葉を遮った。そして、俺に、この計画の、最も深く、最も恐ろしい、最後の秘密を明かした。
「我々が守るべき未来は、二つある。一つは、130年後にやってくる『彼ら』から、人類という種を守ること。そして、もう一つは……」
黒田さんは、一枚の女性の顔写真をテーブルに置いた。見覚えのある顔だった。アルテミス・プライムに設置される、新型の地質調査ユニットを開発した、民間企業の天才エンジニア、小松崎さんだ。
「この二人――畑中飛行士と、小松崎技術者が、月で出会い、結ばれること。それが、我々が守るべき、もう一つの未来だ」
俺は、言葉を失った。
「岡田先生が見てきた未来では、この二人の孫の代に、地球を滅亡の危機から救う、一人の傑出した英雄が生まれることになっている。だが、先生が干渉しなかった『最初の時間軸』では、ある些細な事故が原因で、二人は出会うことすらなかった。――その英雄は、生まれなかった」
俺は、全身の血が凍りつくような感覚に襲われた。
ジェネシス計画。それは、人類を救うための壮大な箱舟であると同時に、たった一組の男女を、結びつけるための、巨大な揺りかごでもあったのだ。
「君の、本当の任務を伝える」
黒田さんの声は、まるで神の宣告のように、俺の鼓膜に響いた。
「畑中飛行士と、彼の任務を地上から支援する小松崎技術者を、月へ送れ。そして、彼らが月で、共に働く時間を作れ。――何よりも優先してだ」
俺は、自分が、人類の運命そのものを設計する、神の駒になったことを悟った。
俺の次の仕事は、ただの軌道計算ではない。
歴史上、最も重要な、お見合いをセッティングすることだった。




