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第二十五話

 総理執務室の空気は、俺が吸い込んできたどんな真空よりも重かった。

 岸辺総理は、腕を組み、長い間、沈黙していた。俺と黒田さんが提示した「黒い白鳥」の動かぬ証拠と、その背景にあるアーティファクト・ゼロ、そして130年後の「到着時刻表」という、人類の常識を根底から覆す報告。彼が、その巨大すぎる真実を消化する時間が必要だった。


 やがて、岸辺は顔を上げた。その目には、もはや懐疑の色はなかった。あるのは、この国の、いや、この星の運命を背負うことになった指導者の、鋼のような覚悟だった。


「……分かった」岸辺は、静かに、しかし力強く言った。「岡田前総理が残した、この途方もない戦い。私が引き継ごう。プロジェクト・イージスは、我が国の最優先事項として、極秘裏に継続する」

 俺と黒田さんは、安堵の息を漏らした。


「だが」岸辺は、鋭い目で俺たちを射抜いた。「条件がある。今の日本が、そして世界が、直面している危機を忘れるな。国民は、130年後の脅威より、明日のパンを求めている。君たちが開発する全ての技術は、我々が『彼ら』を迎撃するための兵器であると同時に、今の我々を救う『薬』でなければならない。――二正面作戦だ。未来の戦争と、現在の危機。その両方に勝つ」


 それは、現実主義者である岸辺らしい、あまりにも困難な要求だった。

 会議が終わり、俺は黒田さんと二人、地下のイージス司令室に戻った。

「……無茶だ」俺は、思わず本音を漏らした。「太陽系規模の防衛網を築きながら、同時に、地球のエネルギー問題や食糧危機を解決しろ、と?」

「そうだ」黒田は、平然と答えた。「そして、その鍵は、既に見つかっている」


 黒田は、メインスクリーンに、「黒い箱」の解析データの一部を映し出した。それは、西田博士のチームが、あの市場暴落のデータを引き出した後、新たに見つけ出した、破損した未来の論文の断片だった。タイトルは、『コンパクト・トカマク型核融合炉における、高温プラズマの長期安定維持に関するブレークスルー』。


「核融合……?」

「そうだ」黒田は頷いた。「太陽と同じエネルギーを、地上で生み出す究極の技術。これが実現すれば、人類はエネルギー問題と、それに付随する環境問題から、完全に解放される。そして……」

 黒田は、俺の目を見た。

「我々の『イージスの盾』に、無限に近いエネルギーを供給することも可能になる」


「ですが、核融合は、まだ実用化には何十年もかかると……」

「今の我々の技術ではな」

 黒田は、論文の、ある数式を拡大した。それは、プラズマを封じ込める磁場の、全く新しい制御方式を示していた。俺には数式の半分も理解できなかったが、それが、現代の物理学の常識を覆す、「失われたミッシング・リンク」であることだけは直感で分かった。


「総理の未来では、この技術はすでに確立されている。そして、面白いことに」黒田は、論文の脚注を指し示した。「この技術の基礎理論に、21世紀初頭、最も肉薄していた日本の、ある小さな研究所の名前が記されている」


 画面には、聞いたこともない名前が映し出されていた。

『京都フュージョニアリング』。


 一週間後。俺は、官僚やJAXAの職員としてではなく、一人の投資家という偽りの身分で、京都の郊外にある、古びた研究所のドアを叩いていた。

 俺を迎えたのは、白衣を着た、人の良さそうな笑顔の初老の男性だった。彼が、京都フュージョニアリングの所長であり、たった一人で、世界中の大企業や国家プロジェクトとは全く違うアプローチで、核融合の実現を夢見ている、天才・片山博士だった。


「……それで、あなたのような方が、このような町工場に、一体どんなご用件で?」

 片山博士は、お茶を出しながら、不思議そうに尋ねた。彼の研究所は、お世辞にも最新鋭とは言えず、手作りの実験装置が所狭しと並んでいる。


 俺は、懐から一枚のデータチップを取り出した。中に入っているのは、西田博士が復元した、あの未来の数式だけだ。

「……ある、匿名の財団からの、投資のご提案です」俺は、用意していたセリフを言った。「我々の財団は、先生の理論に大変感銘を受けました。そして、我々の持つスーパーコンピューターでシミュレーションを行ったところ、先生の理論に、ほんの少しだけ修正を加えることで、プラズマが安定するという結果が出ました」


 俺は、データチップをテーブルの上に置いた。

「これは、そのシミュレーション結果です。もし、先生さえよろしければ、我々はこの技術に、未来を賭けたい」


 片山博士は、怪訝な顔で、そのチップを手に取った。彼は、自分のノートパソコンにそれを差し込み、画面に表示された数式を、食い入るように見つめ始めた。

 数秒後。彼の顔から、人の良さそうな笑みが、すっと消えた。

 そして、次の瞬間、彼は、まるで神の啓示でも受けたかのように、わなわなと震え始めた。


「……ば、馬鹿な……。なんだ、この数式は……。美しい……。まるで、宇宙の真理そのものじゃないか……。これで、本当に……太陽が作れる……」


 俺は、何も言わなかった。

 ただ、人類の歴史を塗り替える、未来からの点火の瞬間を、静かに見つめていただけだった。

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