第二十四話
2028年、秋。
世界は、岡田総理が残した予言の通り、熱病に浮かされていた。苛烈なインフレが人々を苦しめ、異常気象が毎年のように国土を傷つけ、そしてついに、日本は食料の安定供給が揺らぐ「米騒動」の時代へと突入した。ジェネシス計画という壮大な夢は、日々の食卓を心配する国民にとって、もはや遠い星のおとぎ話になりつつあった。
その嵐の中心で、俺の人生にも、一つの小さな、しかし絶対的な中心が生まれた。娘の、ひかりだ。
夜、書斎で「黒い箱」から取り出した、解読不能な未来のデータと格闘した後、寝室で眠る娘の顔を見る。その穏やかな寝息を聞くたび、俺は自分の仕事の意味を再確認する。この腕の中にいる、奇跡の確率で生まれてきた娘が、笑って生きていける未来。その確率を、たとえコンマ1パーセントでも引き上げること。それが、俺の全てだった。
だが、その仕事自体が、今や風前の灯火だった。
「足元の火事を消さずに、100年後の彗星に備える馬鹿がどこにいる!」
テレビに映る岸辺新総理は、国民の溜飲を下げるのがうまかった。彼はジェネシス計画の予算を次々と削減し、その矛先は、ついに俺たちの極秘プロジェクト《イージス》にも向けられようとしていた。
「期限は、今月末だ」
地下のオフィスで、黒田さんは俺に最後通牒を突きつけた。
「今月末の査定会議で、岸辺総理を納得させられるだけの『成果』を示せなければ、プロジェクト・イージスは凍結される。我々は、未来を知るための唯一の目を、自ら潰すことになる」
俺たちのチームは、狂ったように「黒い箱」の解読を続けた。西田博士は、三日三晩、研究室に泊まり込み、AIと人間の知性の限界で、未来の暗号に挑み続けた。だが、復元できるのは、あまりに断片的で、証拠にはなり得ない情報ばかりだった。異星の船のぼやけた画像、理解不能な物理数式……。これらを岸辺総理に見せても、「君たちは疲れているんだ」と、精神科医を呼ばれるのが関の山だろう。
査定会議を三日後に控えた、その日の深夜。
「……見つけた」
西田博士が、かすれた声で呟いた。モニターには、一つの小さなデータファイルが表示されている。それは、これまでのどのファイルとも違っていた。未来の科学技術や歴史ではない。ただの、数字の羅列だった。
「……21世紀初頭の、アジア圏における穀物と希少金属の、商品先物市場の価格変動データだ」博士は、興奮で目を血走らせながら言った。「なぜ、こんなものが。まるで……過去の、我々の世界のアーカイブのようだ」
「これが、証拠になるというのですか?」俺は、半信半疑で尋ねた。
「いや、これだけではな。だが、見てみろ」
博士が、データの最終部分を指し示した。そこには、一つの日付と、グラフの異常な急落が、克明に記録されていた。
「――2028年11月10日。シンガポール商品取引所で、ニッケルの価格が、原因不明の事象により、数時間で80%以上暴落する、と記録されている」
2028年11月10日。それは、明後日だった。
俺は、息を飲んだ。これは、我々に残された、たった一度のチャンスだ。未来を、証明するための。
翌日、俺と黒田さんは、官邸の総理執務室にいた。岸辺総理は、心底うんざりした顔で、俺たちが差し出した一枚の紙を眺めている。
「……商品の価格予測だと?」岸辺は、俺たちを嘲笑うように言った。「国家の危機に、君たちはデイトレードでも始めるつもりか。予算を削られた腹いせかね」
「総理」黒田さんが、静かに、しかし有無を言わせぬ圧力で言った。「これは、ただの予測ではありません。我々が、未来から来たという、岡田前総理の『遺産』から取り出した、**未来の『記録』**です」
「馬鹿馬鹿しい!」
「でしたら、賭けをなさいませんか」俺は、口を開いた。「もし、明日、この記録通りに市場が動かなければ、我々は潔く、プロジェクト・イージスの全てのデータを破棄し、解散します。ですが、もし……もし、この記録が本物だったら」
俺は、岸辺総理の目をまっすぐに見つめた。
「我々が持っている、『未来』の全てを、聞いていただく。取引材料は、この国の、いや、人類の未来です」
岸辺は、しばらくの間、俺の目を睨みつけていた。そして、やがて、ふっと息を吐いて、椅子に深くもたれかかった。
「……いいだろう。君たちの、その狂った予言とやらが、どう外れるか、見届けてやる」
運命の日、2028年11月10日。
俺は、自宅のリビングで、妻と、眠る娘の横で、ただ、経済ニュースの速報画面を食い入るように見つめていた。心臓が、これまで経験したどんなロケットの打ち上げよりも、激しく鼓動していた。
午前11時。市場は、平穏だった。
正午。何事も起こらない。
午後2時。俺の額に、嫌な汗が滲み始めた。
そして、午後3時15分。
『――速報です! 東南アジアの鉱山で、大規模な労働争議による武力衝突が発生した模様! ニッケルの供給が完全に停止するとの情報が流れ、シンガポール市場、大暴落! サーキットブレーカーが発動しました!』
テレビの中のアナウンサーが、絶叫している。市場関係者の誰もが予測しなかった、「黒い白鳥」。
だが、俺と、西田博士だけは、その白鳥が黒いことを、初めから知っていた。
その瞬間、俺のポケットで、特別な着信音が鳴った。暗号化された、総理執務室からの直通回線。
俺は、震える手で、それに応答した。
『…………』
電話の向こうで、長い、重い沈黙があった。
そして、聞こえてきたのは、岸辺総理の、もはや嘲笑の色など微塵もない、冷たく、そして恐怖に染まった声だった。
『……官邸に、今すぐ来い。君たちが持っている『未来』の全てを、聞かせてもらう』
俺は、静かに電話を切り、眠る娘の、小さな手を握りしめた。
俺たちの戦いは、まだ、始まったばかりだ。




