第二十三話
あの日、月の影で星間航路図を発見してから、三ヶ月が過ぎた。
世界は、アルテミス・プライム基地の成功と、月面での長期滞在記録更新のニュースに沸き続けている。だが、俺の世界は、完全に裏返ってしまった。夜空を見上げるたび、星々の煌めきは、もはや希望ではなく、130年後に迫る「彼ら」の無数の視線のように感じられた。
その日、俺は官邸の地下深くにある、地図に載らない会議室にいた。目の前には、黒田官房長と、そして岡田総理。
「君に、新たな極秘プロジェクトを率いてもらう」
岡田総理は、単刀直入に切り出した。その目には、未来を知る者の、底なしの疲労が浮かんでいる。
「プロジェクトの名は、《イージス》。ギリシャ神話の、いかなる攻撃も防ぐという無敵の盾の名だ。君の任務は、130年後に訪れる『彼ら』に対し、我々人類が対抗するための、あらゆる技術的・戦略的手段を構築することにある」
「……私一人では不可能です」俺は、かろうじて声を絞り出した。
「無論だ」黒田が引き取った。「君には、この計画の遂行に必要不可欠な、最高の頭脳を集める権限を与える。ただし、条件がある。決して、本当の目的を明かしてはならない」
絶句した。目的を隠したまま、国最高の科学者たちをリクルートしろというのか。
「無茶です! 彼らをどうやって説得しろと!」
「そのための、『大義名分』は、こちらで用意した」
一週間後、岡田総理はW12の緊急総会を招集し、全世界に向けて発表を行った。
「――最近の観測により、太陽系外から飛来する、長周期の彗星群の存在が確認された。その軌道は、100年から150年後に、地球を含む内太陽系と交差する可能性がある。これは、ジェネシス計画の前提を覆しかねない、新たな脅威だ。よって、W12は本日、ジェネシス計画の第二フェーズとして、**『惑星防災イニシアチブ』**の発動を宣言する!」
世界は、再び騒然となった。
彗星迎撃。それは、ハリウッド映画のような話だが、岡田総理が言うと、不気味なほどの現実味を帯びた。このカバーストーリーは完璧だった。小惑星帯の資源開発も、宇宙望遠鏡による深宇宙観測も、そして、迎撃システムの開発も、すべてが「彗星から地球を守る」という、分かりやすい物語に集約されてしまう。
俺たちは、この偽りの大義の盾の陰で、本当の戦いを始めるのだ。
俺は、最初の仲間として、JAXAでも指折りの天才と、そして奇人として知られる、一人の老教授の元を訪れた。暗号理論と理論物理学の権威、西田博士。白髪の部長の、大学時代の恩師でもあった。
「……ほう。彗星迎撃、かね」
西田博士は、俺が差し出した資料を一瞥し、紅茶を一口すすると、言った。
「嘘だな」
「……え?」
「君の目だ。彗星のような、単純な物理現象に立ち向かう人間の目ではない。君は、理解不能な、もっと得体の知れない何かを怖れている。違うかね?」
俺は、言葉に詰まった。この老人には、全てがお見通しらしかった。
「……お引き受け、いただけないでしょうか」
「面白い。乗ろう」西田博士は、あっさりと頷いた。「ただし、条件がある。いつか、君が本当に見ている『敵』の正体を、私にだけは話しなさい」
こうして、俺たちの秘密のチーム、「イージス」は、たった二人で発足した。
そして、その最初の会合の日。黒田が、俺たちの地下オフィスに、一つのアタッシュケースを運んできた。
「総理からだ。君たちの、最初の仕事になる」
ケースを開けると、中には、光を全く反射しない、漆黒の立方体があった。一辺が20センチほどの、何の継ぎ目もない、完璧な箱。
「これは……」
「総理が、未来から持ってきた、唯一の遺物だ。我々は、これを**『黒い箱』**と呼んでいる」
黒田は、淡々と説明した。
「中には、我々が知るべき、あらゆる情報が眠っているはずだ。来訪者の科学技術、彼らの生態、そして、総理が経験した『最初の時間軸』の歴史。だが、タイムスリップの衝撃で、データの大半は破損し、我々の知らない形式で暗号化されている」
俺と西田博士は、顔を見合わせた。
「……つまり」西田博士が、子供のような好奇心で目を輝かせながら言った。「我々の最初の仕事は、未来からの手紙を、解読することかね?」
「そうだ」黒田は頷いた。「君たちには、彗星迎撃システムの設計と並行して、この箱の解読を進めてもらう。――どちらが、先に人類の命運を決めることになるか、私にも分からんがな」
俺は、その黒い箱に、そっと手を触れた。ひんやりとしていて、石のように重い。
この小さな箱の中に、人類の、失われた未来と、これから選ぶべき未来が、同時に眠っている。
俺は、目の前に置かれた、二つの巨大なパズルを前に、ただ立ち尽くすことしかできなかった。




