第二十一話
2025年、春。
世界は、月面基地の成功に酔いしれていた。最初の長期滞在クルー六名は、英雄として地球へ帰還し、今や基地には第二陣となる科学者チームが滞在している。八咫烏・居住モジュールは完璧に機能し、アメリカの発電施設は安定した電力を供給し、ESAの実験棟では、低重力下での植物栽培が始まったと報じられている。人類は、月で暮らし始めたのだ。
そして俺は、その偉業を成し遂げたJAXAの軌道計画部主任として、数えきれないほどの取材を受け、講演会に呼ばれ、子供たちからは英雄のように扱われた。
だが、それはすべて、俺が生きる世界の、半分でしかなかった。
夜、俺は家族と食卓を囲み、月面でトマトが実ったという明るいニュースを見る。しかし、食事が終わると、書斎の奥にある、生体認証でしか入れない小さな一室に籠る。そこが、俺が生きるもう半分の世界。W12の中でも、岡田総理と黒田官房長、そして各国首脳を含む十数名しかその存在を知らない、極秘プロジェクトの司令室だ。
プロジェクトの名は、《イザナギ》。
日本の神話で、禁忌を破り、死者の国を覗き見た神の名。我々の使命は、あのアーティファクト・ゼロが眠る「候補地C」――今や我々の間では**「黄泉」**と呼ばれている場所――の謎を、誰にも知られずに探ることだった。
「どうして、最近そんなに疲れているの?」
ある夜、妻が心配そうに俺の顔を覗き込んだ。「月面基地が成功して、あなたの夢が叶ったはずなのに。昔みたいに、目がキラキラしてない。何かに、怯えているみたい」
俺は、「責任が重くなっただけさ」と、嘘をついて笑うしかなかった。本当のことを言えるはずがない。俺たちが今、人類の未来を左右する、途方もない秘密の扉に手をかけていることなど。
俺たちのチームが、この一年半、心血を注いで開発してきたもの。それは、ローバー(探査車)ではなかった。アーティファクトが放つ強力な磁場の中では、地面を走る機械はあまりに無力だ。
我々が作ったのは、直径わずか2メートルの、六角形の小型ドローン。自律航行し、クレーターの永久影の中を、音もなく飛ぶ、いわば**「宇宙の忍者」だ。
その名は、《シズク(雫)》**。黄泉の国に、静かに落ちる、一滴の雫。
シズクは、レーザーと超音波を駆使して、完全な暗闇の中でも地形を三次元で把握し、飛行する。動力は、磁場の影響を受けにくい、小型の原子力電池。その存在は、W12のパートナー国にさえ、知られていない。
「おい」
ある日、JAXAの廊下で、白髪の部長に呼び止められた。彼は、今や八咫烏計画全体の総責任者だ。
「君が最近申請している通信衛星の軌道スケジュールだが……どうにも奇妙だ。シャックルトン・クレーターの上空で、特定の時間に、不必要なくらい高密度の通信帯域を確保している。何か、公にできない実験でもやっているのか?」
俺は、心臓が凍りつくのを感じた。
「……月面からの反射波を観測する、基礎実験ですよ」
俺は、用意していた言い訳を、完璧な笑顔で答えた。部長は、「そうか」とだけ言って去っていったが、その目に宿る鋭い光は、ごまかしきれていないことを物語っていた。
そして、運命の日が来た。
シズクは、表向きは「次世代通信衛星3号機」として、H3-Heavyによって打ち上げられた。月周回軌道に到達した後、衛星は、月の裏側で、地球からは見えないタイミングで、静かにその積荷を放出した。
俺は、筑波の地下深くにある、イザナギ計画専用の小さな管制室で、その瞬間を見守っていた。部屋にいるのは、俺と、俺が選び抜いた三人の部下だけだ。
メインスクリーンに、衛星から分離されたシズクが、自律制御でスラスターを噴射し、クレーター「黄泉」へと降下を始める様子が映し出される。小さく、頼りなく、そして、あまりにも孤独な、人類の密偵。
やがて、シズクはクレーターの縁を越え、永久影の中へと姿を消した。光が支配する「表の月」から、闇が支配する「裏の月」へ。
数分後、俺のコンソールに、最初のテレメトリが届いた。
緑色の、短いテキスト。
[シズク-01:降下フェーズ開始。ステルスモード起動。これより、自律探査へ移行する]
俺は、自分が帰ることのできない川を渡ってしまったことを悟った。
俺は、総理が目指す未来のために、仲間を、パートナー国を、そして、愛する家族さえも欺いている。この先に何が待っているのか、俺はまだ知らない。
ただ、画面に表示される、ゆっくりと減少していく高度の数字を見つめながら、俺は、人類の運命を乗せた小さな雫が、深淵の闇へと落ちていくのを、静かに見守っていた。




