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第二十話

 2024年、夏。

 人類は、月へ帰還した。それも、半世紀前のアポロ計画のような、短期滞在の訪問者としてではない。永住を前提とした、最初の「開拓者」としてだった。


 月の南極、シャックルトン・クレーターの縁に広がる「候補地A」。そこは、今や**国際月面資源基地アルテミス・プライム**と名付けられ、白く輝く希望の町となっていた。日本のH3-Heavyが運び込んだ八咫烏・居住モジュールを中心に、アメリカの発電施設、ESAの科学実験棟が連結され、太陽光パネルが広大な平原を銀色に染めている。

 そして今日、その町へ、最初の住人となる6名の宇宙飛行士が、歴史的な第一歩を記そうとしていた。


 俺は、筑波の統合管制センターで、その着陸シーケンスを固唾を飲んで見守っていた。軌道計画の総責任者として、彼らの命は俺の計算の上に乗っている。だが、俺の意識の半分は、全く別の場所にあった。

 メインコンソールの片隅に、もう一つ、小さなウィンドウが開かれている。それは、W12の中でもごく一握りの人間しか知らない、極秘プロジェクトの管制画面だった。

 プロジェクトの名は、《プロメテウス》。


 アルテミス・プライムが、人類の「公の月」ならば、プロメテウス計画の舞台は、決して語られることのない「影の月」だ。

 三年前、ヤタガラス1号が発見した、あの謎の遺物。それは現在、「アーティファクト・ゼロ」と仮称されている。その正体を探るため、我々は一年前に、地質調査という名目で、小型の無人探査車ローバーを「候補地C」の近くに送り込んでいた。

 ローバーの名は、《コダマ》。山の神の声を、持ち帰るために。


 そして、この歴史的な有人月面着陸の喧騒に紛れて、今、コダマはアーティファクト・ゼロへの、最終接近を試みていた。


「アルテミス・クルー、降下シーケンス最終段階へ!」

 メインスピーカーから、FDの張りのある声が響く。管制室の誰もが、メインスクリーンに映し出された月着陸船の映像に釘付けになっている。


 だが、俺のヘッドセットにだけは、全く別の、小さな声が届いていた。

『……主任。コダマが、アーティファクトから距離50メートルに到達。ですが、磁場干渉が想定以上に強く、内部システムにエラーが多発しています』

 プロメテウス計画の専任オペレーターからの、焦りの滲んだ報告。


「状況は?」俺は、マイクを口元に隠しながら、小声で尋ねる。

『危険です。このままでは、完全に制御を失う可能性があります。一旦、後退すべきです』


 俺は、唇を噛んだ。黒田官房長からの命令は、絶対だった。「有人着陸の成功に、世界が注目しているこの瞬間を逃すな。最大限のリスクを取ってでも、データを持ち帰れ」と。


「クルー、着地まで30秒!」

 メインスクリーンでは、アルテミス・プライムの白い大地が、もう目の前に迫っている。世界中が、この歴史的瞬間のために、息を殺している。


『主任、ご決断を!』

 ヘッドセットの声が、俺を現実に引き戻す。

「……続行しろ」俺は、非情な決断を下した。「ローバーを犠牲にしてもいい。アーティファクトの表面に、高解像度スキャナーを照射しろ。何としても、あの模様のデータを……!」


 俺の目は、二つの月を同時に見ていた。

 光の月では、人類の英雄たちが、栄光の大地へ降り立とうとしている。

 影の月では、孤独な機械の尖兵が、禁断の真実へ手を伸ばそうとしている。


「タッチダウン! 着陸成功!」

 メインスクリーンが、管制室の歓喜の映像で埋め尽くされた。抱き合い、涙を流す同僚たち。世界中が、新たな時代の幕開けに熱狂している。


 だが、その瞬間、俺のヘッドセットからは、断末魔のような声が聞こえていた。

『……スキャン開始! データ転送……ああ、ダメだ、電源が! 電圧、急降下! 制御不能!……』

 そして、その声を最後に、コダマからの信号は、完全に途絶えた。


 歓喜の喧騒の中、俺は、自分のコンソールの片隅に表示された、最後の画像データを食い入るように見つめていた。

 それは、転送が中断される直前に、コダマが命と引き換えに送り込んできた、アーティファクト・ゼロの表面の、超高解像度画像だった。

 幾何学的な模様。それは、文字でも、回路図でもなかった。


 無数の、星々。

 そして、その星々を結ぶ、無数の、航路図。


 それは、俺が今、必死に設計している太陽系の航路図とは、比較にならないほど広大で、複雑な……銀河系の、星間航路図だった。

 俺は、全身から血の気が引いていくのを感じた。


 メインスクリーンでは、宇宙服を着た船長が、月面に人類の新たな一歩を記し、高らかに宣言していた。

「今日、我々は、星々への扉を開いた!」


 だが、俺だけは知ってしまった。

 その扉の向こう側には、我々が想像もしていなかったほど、広大な道がすでに存在していることを。

 そして、その道を作った、先行者がいるということを。

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