第二話
A会議室のドアは、思ったよりも軽かった。まるで異世界への扉のように重々しいものだと勝手に想像していたが、現実はただのアルミと合板だ。内側からは、プロジェクターのファンの音と、乾いた咳が一つ聞こえた。
部屋の空気は、新しいカーペットの接着剤の匂いと、数時間前から稼働しているであろう空調の淀みが混じり合っていた。すでに長テーブルには、俺の所属する研究開発部門の各チームから選抜されたのであろう、見慣れた顔が並んでいる。誰もが口を閉ざし、硬い表情で正面のスクリーンを見つめていた。推進系一筋の白髪の部長、衛星管制の若きエース、そして俺のような軌道計算の専門家。総勢三十名ほど。JAXAの頭脳、その一部。
やがて、部屋の照明が一段階暗くなり、スクリーンの光が俺たちの顔を青白く照らし出した。前方には、官邸から来たと紹介された、黒田と名乗る男が立っていた。歳は五十代半ばだろうか。ワイシャツには皺一つなく、瞬きの回数が極端に少ない、感情というものが蒸発してしまったかのような男だった。
「――では、始めます」
黒田はレーザーポインターの赤い光で、スクリーンの一点を射抜いた。映し出されたのは、岡田総理の顔写真。
「昨日、岡田総理は国民に向けて所信を表明されました。その根幹にあるのが《ジェネシス計画》です。本日は、その基本骨子を皆さんと共有し、実行に向けた第一歩とするためのブリーフィングです」
カチ、と黒田が手元のリモコンを操作する。スライドが切り替わった。タイトルは**『ジェネシス計画 序論:回避すべき未来』**。
箇条書きされた未来予測は、総理の著書にあったものと同じだった。飢饉、パンデミック、大円安、そして侵略戦争。だが、その横には、内閣府が極秘にシミュレーションしたという、さらに詳細な被害想定が付記されていた。食料自給率は20%を割り、円の価値は半減、そして日本南西海域に伸びる、赤い矢印。俺の背筋を、冷たいものが走った。
「これは、総理が“見てきた”未来の光景です。我々の仕事は、この光景を現実のものとしないこと。そのための唯一の手段が、ジェネシス計画です」
次のスライド。『第一章:世界宇宙開拓評議会(W12)の設立』。
スクリーンには、創設メンバーとなる12の国と機関の旗が円形に並んでいた。アメリカ、中国、ロシア、欧州、そして日本の日章旗。
「もはや、一国で宇宙を目指す時代は終わりました。ジェネシス計画は、人類という種全体の生存を賭けた事業です。W12の設立により、我々は技術、資金、そしてリスクを共有する。全ての規格を統一し、一つのチームとして動く」
統一規格、という言葉に、隣に座っていた通信システム担当の男が小さく息を呑んだ。ドッキング装置、言語、度量衡、果ては船内電源の電圧に至るまで。それは技術者にとって、悪夢であり、同時に究極の夢でもあった。
黒田は淡々と続ける。次のスライドは**『第二章:宇宙への道』**。そこには、7機のロケットのCGが並んでいた。見慣れたH3ロケットの発展型「H3-Heavy」、中露共同開発の「アムール・ドラゴン」、そして中央に鎮座する、他を圧倒する巨体。
「輸送手段の多様化、すなわち冗長性の確保です。そして、これが計画の主役、W12共同開発の超大型ロケット、ワールド・ヘビーリフター《アルゴノート》」
俺は思わず身を乗り出した。全長130メートル、低軌道へのペイロード能力150トン。現在の主力機の5倍以上。馬鹿げている。紙の上の計算でしか存在しなかった、怪物。
「そして、これらのロケットが目指す最初の拠点。地球低軌道に建設する、国際宇宙港です」
スライドが切り替わり、息を呑むような巨大な宇宙ステーションの想像図が映し出された。ISSの数十倍の規模を持つ、一つの町。滞在人数、300名以上。
「馬鹿な……」誰かが呟いた。「そんなものをどうやって維持する。補給だけで国家予算が吹き飛ぶぞ」
その呟きを待っていたかのように、黒田はリモコンを操作した。
『第三章:トライステラ・ネットワーク』。地球、月、火星が、太い線で結ばれた図。
「テラ・アンカーは始まりに過ぎません。我々は月と火星に恒久的な拠点を築き、三つの天体を結ぶ生活圏を確立します」
月の南極基地。火星の開拓村。矢継ぎ早に映し出される未来の光景に、会議室の空気はもはや現実感を失い、SF映画の鑑賞会のようになっていた。
「そして、これがジェネシス計画の経済的根幹です」
黒田が指し示した最後のスライド。タイトルは**『第四章:現地資源利用(ISRU)』**。
「燃料費こそが、宇宙開発の最大のネックでした。我々はその常識を覆します。――月の氷から、ロケット燃料を現地生産するのです」
その瞬間、会議室に走った衝撃を、俺は忘れることができないだろう。それは、絶望的なコスト計算に頭を抱えていた全ての技術者にとって、まさに「天啓」だった。月の氷。小惑星の鉱物。火星の大気。それら全てが、資源に変わる。宇宙は、消費する場所から、生産する場所へ。
「テラ・アンカーは地球からの補給を待つだけの施設ではない。月で作った燃料と、小惑星帯で採掘した資源を受け取り、火星へ送り出す、太陽系のハブになるのです。燃料費は、克服すべきコストから、我々が生み出す新たな産業に変わる」
黒田は初めて、レーザーポインターのスイッチを切った。部屋に、再びプロジェクターのファンの音だけが戻ってきた。
「――これが、ジェネシス計画の全貌です」
誰も、声を発しなかった。あまりに壮大で、あまりに常軌を逸していて、だが、その内部構造は恐ろしいほどに合理的だった。未来人という岡田総理の言葉が、初めてただの妄言ではない、不気味な重みを持って俺たちの頭に響いた。
黒田は、テーブルに並ぶ俺たちの顔を、値踏みするようにゆっくりと見渡した。
「本日、皆さんには各部署に戻り次第、ジェネシス計画を現行の技術で実現した場合の、課題の洗い出しと、ロードマップの再設計に取り掛かっていただきます」
そして、黒田の視線が、俺の上でぴたりと止まった。
「特に、軌道計画室。君たちには、このトライステラ・ネットワークと、将来の小惑星帯航路を含めた、全太陽系の新たな物流軌道を設計してもらう。月で生産した燃料を、最も効率的に各拠点へ配送するための、全く新しい航路図だ」
俺は、息をすることさえ忘れていた。
「第一草案の提出は、一ヶ月後。――質問は?」
質問など、あるはずもなかった。それは命令であり、そして、宣告だった。
俺は、人類史上、最も複雑で、最も重要な軌道計算を任されたのだ。この、未来からやってきたという総理大臣の、狂った計画の、最初の歯車として。




