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第十九話

 時間は、引き伸ばされたゴムのように、その弾性を失っていた。

 テレメトリが途絶えてから、まだ五秒も経っていないはずだった。だが、俺には、それが永遠の沈黙のように感じられた。管制室の壁にかけられた時計の秒針だけが、カチ、カチ、と無慈悲に、俺たちの世界の死を刻んでいる。


「……状況は」

 フライトディレクター(FD)の、かすれた声が静寂を破った。

「ダメです……キャリア信号、完全にロスト。ヤタガラスからの応答、ありません」

 通信担当官の答えは、死亡宣告だった。誰もが、顔を覆い、天を仰ぎ、あるいは、ただ虚空を見つめていた。白髪の部長は、唇を固く噛み締め、その目には無念の光が浮かんでいる。

 俺の計算は、結局、鉄の塊を月に叩きつけただけだったのか。総理の不可解な命令のせいで、我々は貴重な探査機を、そして仲間たちの数年分の努力を、この暗いクレーターの底で砕いてしまったのか。

 罪悪感が、冷たい水のように、俺の肺を満たしていく。


 その、全てが終わったと思った瞬間だった。


「……信号!」

 通信担当官が、ヘッドセットを耳に押し付けながら叫んだ。

「微弱ですが、キャリア波を再捕捉! ヤタガラスは、生きている!」


 その一言は、死刑囚に下された恩赦のようだった。管制室に、堰を切ったような安堵のどよめきが広がる。

「映像は!?」

「ダメです、まだ……砂塵レゴリスが舞いすぎて、カメラのレンズが……待って、今、少しずつ晴れてきた……」


 メインスクリーンに、ノイズだらけのモノクロ映像が映し出された。それは、ヤタガラス1号の着陸カメラが捉えた、月面の光景だった。舞い上がる砂塵が、まるで吹雪のように視界を遮っている。

 だが、その吹雪がゆっくりと晴れていくにつれて、誰もが息を呑んだ。


「……なんだ、あれは」

 誰かが、呆然と呟いた。


 ヤタガラス1号は、俺が指示した平坦地から、わずか数メートルずれた場所に、斜めに傾きながらも、確かにその脚で立っていた。その片方の脚は、着陸の衝撃で、柔らかい砂地の奥深くにめり込んでいる。

 そして、そのめり込んだ脚のすぐそば。逆噴射の炎が表層の砂を吹き飛ばしたことで、露わになった地面。

 そこにあったのは、岩ではなかった。


 それは、明らかに人工的な、金属質の構造物の一部だった。

 表面は、数億年の微小隕石の衝突によって摩耗しているが、その形状は、自然が生み出すそれとは明らかに異質だった。鈍い光を放つ、黒曜石のような滑らかな黒。そして、まるで巨大な船の肋骨か竜の背骨のように、規則的なパターンで湾曲している。


 管制室は、先ほどとは全く違う種類の、水を打ったような静寂に包まれた。誰もが、自分の目を疑っていた。

「……ズーム、最大」FDが、絞り出すような声で命じた。


 映像が拡大される。その黒い構造物の表面には、何かがあった。

 幾何学的な、模様。それは、文字のようにも、あるいは、回路図のようにも見えた。俺たちの知らない、全く別の知性が刻んだ、何かの痕跡。


 俺は、全身の血が逆流するような感覚に襲われた。

 総理は、これを知っていたのだ。未来から来た彼は、この場所に、これがあることを、初めから知っていた。だから、彼は全ての科学的合理性を無視してでも、我々をここに降ろさせたのだ。

 これは、探査ではない。**「発掘」**だったのだ。


 ポケットの中で、スマートフォンが震えた。表示された名前は、黒田官房長。俺は、震える手で応答した。

「……もしもし」

『見たかね』黒田の声は、いつもと変わらず、感情がなかった。『それが、君たちがこれから向き合う、本当の仕事だ』

「これは……一体、何なんですか」

『私にも分からん。総理は、ただこう言っていた』


 黒田は、一拍置いて、続けた。


『**“ジェネシス計画の、本当の『礎』だ”**と』


 俺は、言葉を失った。

 メインスクリーンには、人類以外の知性が遺した、巨大な構造物の残骸が、静かに映し出されている。その向こう側、クレーターの縁から、青く輝く小さな地球が、ゆっくりと昇ってきていた。

 我々は、ただ宇宙に進出しようとしていたのではない。

 我々は、この宇宙で、我々が「最初の子」ではなかったという、厳粛な事実に、今、直面したのだ。

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