第十八話
JAXA筑波宇宙センター、最も機密性の高い第一会議室。そこに集められたのは、俺を含む八咫烏計画のトップ十数名。向かいの席には、宇宙開発省の黒田官房長が、相変わらずの無表情で座っていた。
「結論から言おう」黒田は、テーブルの上に置かれた分厚い報告書を一瞥だにせず言った。「月面建設ロボット第一陣、《ヤタガラス1号》の主着陸地点は、**『候補地C』**とする」
その瞬間、会議室の空気が凍りついた。
「……正気ですか、黒田官房長」
声を上げたのは、白髪の部長だった。彼の声は、怒りで震えていた。
「候補地Cだと? あそこはシャックルトン・クレーターの永久影の中だ! 日照が無く、地形は複雑で、何より、我々が持つ地表データが最も乏しい、危険極まりない場所だぞ! 全ての科学的データが、最適地は広くて安全な**『候補地A』**だと示している! なぜ、わざわざ危険な方を選ぶ!」
その通りだった。候補地Cは、自殺志願者のための着陸地点だ。
だが、黒田は動じなかった。
「これは、岡田総理の最終決定だ」
「総理は科学者ではない! 我々の分析を無視しろと!」
「そうだ」黒田は、あっさりと認めた。「総理の決定は、君たちの科学的分析よりも、さらに高次の戦略的判断に基づくものだ。君たちの仕事は、目的地を議論することではない。いかなる目的地であろうと、荷物を完璧に送り届けることだ。――以上だ」
有無を言わせぬ、一方的な通告。会議室は、屈辱と怒りの沈黙に包まれた。
俺たちは、理由も分からぬまま、最も困難なミッションを強制されたのだ。
そこからの三週間は、地獄だった。
俺のチームは、不眠不休で候補地Cへの新たな降下シーケンスを設計し直した。シミュレーションでは、着陸船は何度も仮想の岩塊に激突し、クレーターの壁に接触して大破した。成功率は、どんなに甘く見積もっても60%に満たなかった。
「なぜだ……なぜ、あんな場所なんだ……」
俺は、モニターに映る候補地Cの、不鮮明なモノクロ写真を睨みつけながら、何度も呟いた。総理は未来人だという。ならば、この無謀な命令には、俺たちが知らない未来の情報が関わっているはずだ。
俺は、半ば狂ったように、過去の月探査データのアーカイブを漁り始めた。何かないのか。候補地Cに関する、どんな些細な情報でもいい。
そして、打ち上げ二日前。俺は、二十年以上前の、今はもう忘れ去られた月探査機の、ノイズまみれの磁場データの中に、それを見つけた。
候補地Cの地下深く。ほんの一瞬だけ、記録されている、極めて不自然な、強力な磁場の乱れ。当時の科学者たちは、これを単なる観測機器のノイズとして処理していた。だが、それはあまりに局所的で、あまりに鋭いスパイク波形だった。天然の現象とは、到底思えなかった。
「……まさか」
俺の背筋を、冷たい汗が伝った。総理は、これを知っているのか。この下に、何かがあることを。
2021年8月。
H3-Heavyは、ヤタガラス1号を乗せて、完璧な打ち上げをこなした。問題は、その先だ。
月周回軌道から、いよいよヤタガラス1号が分離され、月面への降下を開始する。JAXAの管制室は、水を打ったように静まり返っていた。
「降下シーケンス、最終段階へ。高度2000……1000……」
着陸船のカメラが、クレーターの永久影の中の、荒々しい地表を映し出す。ゴツゴツとした岩が無数に転がり、まるで悪魔の顎のように、我々の挑戦を待ち構えている。
「高度100……50……」
その、誰もが成功を信じかけた瞬間だった。
「警報! ハザード検知! 予定着陸地点直下に、未確認の岩塊群!」
管制室に、アラート音が鳴り響く。着陸船のAIが、自らの判断でメインエンジンを再噴射し、降下を中断。上空20メートルで、緊急ホバリングを開始した。
「馬鹿な! なぜ探知できなかった!」
「クレーターの影が深すぎるんだ!」
絶望的な声が飛び交う。ホバリングを続けられる燃料は、もって数十秒。このままでは、燃料が尽きて墜落する。
「……右舷前方、15メートル!」俺は、叫んでいた。「そこに、幅5メートルの平坦地がある! そこへ手動で誘導しろ!」
俺が、あの磁場データを見つけた後、万が一のために計算しておいた、最後の緊急回避ルートだった。
「しかし、リスクが高すぎる!」
「このまま墜落するよりマシだ!」
FDの決断は、一瞬だった。
「……やれ! ヤタガラス1号の制御を、手動誘導モードへ切り替えろ!」
俺は、震える指で、最後のコマンドを打ち込んだ。
モニターの中で、ヤタガラス1号は、最後の力を振り絞るように機体を傾け、俺が示した一点の希望へと、ゆっくりと降下を始めた。
逆噴射の青白い炎が、数億年ぶりに、月の影の底を照らし出す。舞い上がる黒い砂塵。
そして、全てのテレメトリが、一瞬、途切れた。




