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第十七話

 2020年。その年は、人類史において最も奇妙な一年として、後に記憶されることになるだろう。

 地上では、見えないウイルスが都市を沈黙させ、人々はマスクという名の壁で互いを隔てた。俺は、書斎という名の独房から、世界の停滞をただ眺めることしかできなかった。

 だが、俺たちがモニター越しに見上げていた空の、その遥か向こう側では、人類はかつてないほどの速度で、未来へと駆け抜けていた。


 2月。火星に、地球からの使者たちが殺到した。

 まるで示し合わせたかのように、アメリカ、中国、UAEの探査機が、次々と赤い惑星の周回軌道へ到達したのだ。史実よりも数年早い、ジェネシス計画の成果だった。

 ニュースキャスターは、これを「W12による協調探査の金字塔」と報じた。競争ではない。それぞれの探査機が、未来の火星基地オリンポス・ビレッジ建設のための、異なるデータを収集する。アメリカの探査車は地質を、中国は地下の氷を、UAEは火星全体の気候を。その膨大なデータを統合し、最も安全で、最も資源のある場所を特定する。俺たち軌道計画室は、三つの探査機が互いに干渉することなく、完璧な軌道を描くための交通整理だけで、地獄のような数ヶ月を過ごした。


 そして4月、世界は息を呑んだ。

 アメリカの探査車から放出された、小型のドローンヘリコプターが、火星の薄い大気の中を舞い上がったのだ。地球以外の星で、人類が初めて、空を飛んだ瞬間だった。

 妻と二人、自宅のリビングでその映像を見ていた。プロペラが巻き上げる赤い砂塵。頼りなく、しかし確かに浮き上がる小さな機体。その背景に広がる、どこまでも続く荒涼とした赤い大地。

「……すごい」妻が、感嘆の息を漏らした。「人間は、地球で身動きが取れないのに、ロボットは火星の空を飛んでる」

 その言葉は、この時代の奇妙さを、的確に言い表していた。


 夏には、民間企業による宇宙旅行が始まった。秋には、民間人だけのクルーが地球を三日間周回した。冬のクリスマス、南米のガイアーズ・ポートから、ESAが開発したアリアン7「プロメテウス」が、人類史上最大の宇宙望遠鏡――我々の計画では《コズミック・アイ》のプロトタイプとなるそれを、宇宙の深淵へと送り届けた。

 地球が内へ内へと縮こまっていく中で、人類の活動圏は、外へ外へと爆発的に拡大していく。その巨大なエネルギーの中心に、ジェネシス計画はあった。


 そして、年が明けた2021年の1月。

 俺は、久しぶりに筑波の宇宙開発省へ出向いていた。パンデミック後、初めてとなる大規模な対面会議。黒田官房長が、W12の全技術主任に向けて、新たな指令を下すためだ。


 会議室の巨大スクリーンに、月面基地アルテミス・プライムの最新の想像図が映し出されていた。

「火星探査は順調だ」黒田は、集まった俺たちを見渡しながら言った。「だが、あれはあくまで未来への投資。我々の当面の、そして最重要の目標は、ここだ」

 彼のレーザーポインターが、月の南極を指し示す。


「これより、ジェネシス計画は、八咫烏計画・第二フェーズへ移行する。すなわち、月面への恒久拠点建設を、本格的に開始する」


 会議室の空気が、引き締まった。


「昨年までの月周回探査により、建設候補地は三箇所に絞り込まれた。いずれも、豊富な水の氷と、安定した太陽光発電が見込める場所だ。我々は、ここに最初の礎を築く」

 スクリーンが切り替わり、ずんぐりとした、蟹のような形をした無人探査車が表示された。

「第一陣として、この自律型建設ロボットを、複数、月面へ送り込む。彼らの任務は、人間のクルーが到着する前に、着陸地点を整地し、太陽光パネルを展開し、最初の居住モジュールを設置するための基礎工事を完了させることだ」


 そして、黒田は俺の方を向いた。

「軌道計画主任。君のチームの次の仕事は、このロボットたちを、地球から月面まで、最も安全かつ効率的に送り届けるための、一連の輸送計画を立案することだ。使用するロケットは、日本のH3-Heavy。ペイロードは、ロボットと、それを月面へ軟着陸させるための降下モジュール。失敗は、許されない」


 俺は、背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。

 これまでの仕事は、宇宙空間という、いわば「道」の上での計算だった。だが、今度は違う。月という「大地」へ、直接モノを降ろすのだ。着陸の数分間は、地上からのコントロールは間に合わない。全ては、事前にプログラムされた、完璧な降下シーケンスと、俺たちが算出した正確な軌道にかかっている。


 会議が終わり、俺は自分のオフィスに戻った。

 窓の外では、雪が舞い始めていた。白い雪が、静かに地上を覆っていく。

 俺は、ディスプレイに、月の南極のクレーターの、白黒の鮮明な画像を表示させた。永久に太陽の光が当たらない、その暗い底に、人類の未来を支える資源が眠っている。

 白い雪と、白い月の大地。二つの世界を見比べながら、俺はキーボードに手を置いた。

 地球から月へ。最初の、開拓者を送り出すための、新しい計算が始まった。

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