第十六話
2020年。地球は、目に見えない敵に覆い尽くされた。
新型コロナウイルスという名のパンデミックが、国境を、経済を、そして人々の日常を、いとも簡単に麻痺させた。俺の職場は、筑波の広大なキャンパスから、自宅マンションの狭い書斎へと変わった。ヘッドセットからはW12各国の管制官たちの声が飛び交い、目の前のマルチモニターには太陽系の航路図が映し出されている。だが、窓の外に広がるのは、人影もまばらな、静まり返った街の風景だけだ。人類の活動圏は、かつてないほど広がり、そして、かつてないほど縮小していた。
妻もまた、在宅勤務を余儀なくされていた。リビングのテーブルには彼女の設計図が広げられ、書斎には俺の計算式が溢れる。我々は、同じ家で暮らしながら、それぞれが別の世界で戦っていた。昼食時、マスクを外して黙々とパスタを口に運びながら、テレビのニュースを見る。世界の感染者数を示す赤いグラフと、重症者病棟の逼迫を伝える悲痛なレポート。それが、俺たちの日常だった。
sそんな中、宇宙は、まるで地球の惨状をあざ笑うかのように、新たな扉を開いた。
5月30日。アメリカの民間ロケット「ファルコンXX」が、初めて、W12の正規クルーではない、自社の宇宙飛行士を乗せて宇宙へ飛び立った。俺はその打ち上げを、自宅のモニターの一つで見守っていた。軌道計算は、もちろん俺のチームが担当した。だが、そこにJAXAの管制室で感じたような、魂を削るような緊張感はなかった。ただ、奇妙なほど静かな、歴史の目撃者になっているという感覚だけがあった。
彼らがドッキングしたのは、あの危機を乗り越え、完全に修復・拡張された国際宇宙港だ。船内では、W12のクルーたちが、笑顔で民間飛行士たちを出迎えていた。国籍も、所属も違う人間が、当たり前のように宇宙で握手を交わしている。その光景は、地上で人々が互いに距離を取り、疑心暗鬼になっている現実とは、あまりにも対照的だった。
そして、その三ヶ月後。人類の歴史は、さらに大きく変わった。
「信じられない……」
妻が、ソファの隣で声を漏らした。
テレビには、テラ・アンカーに新設された、巨大な窓を持つ商業モジュール「ビスタ」の内部が映し出されていた。そこに浮かんでいるのは、プロの宇宙飛行士ではない。日本のIT企業の創業者、アメリカの著名な映画監督、そして、国際宝くじで宇宙旅行を引き当てたというブラジルの教師。――史上初の、宇宙旅行客たちだ。
彼らは、子供のようにはしゃぎながら無重力空間を漂い、眼下に広がる青い地球を背景に、スマートフォンで自撮りをしている。その映像は、あまりにも美しく、そして、残酷なほどに平和だった。
同じ画面の下には、テロップが流れている。『本日、国内の感染者数、過去最多を更新』。
「ねえ」妻が、俺に問いかけた。「あの人たちは、何をしに宇宙へ行ったのかな。希望を見つけに? それとも……地球から、逃げ出しに?」
俺には、答えられなかった。
その夜、俺は書斎で、自分が設計した《ガーディアン》プロトコルのファイルを見返していた。テラ・アンカーでのシステム異常、月面基地での火災……あらゆる「もしも」を想定した、緊急時対応マニュアル。その中に、「検疫・生物学的ハザード対応手順」という項目があった。火星の未知の微生物を想定して作った、机上の空論のはずだった。
だが、今は違う。
もし、テラ・アンカーでパンデミックが発生したら? 狭い閉鎖空間。逃げ場のない宇宙。それは、地上の比ではない、死の箱舟と化すだろう。
岡田総理が回避しようとした未来。飢饉、戦争、そして、パンデミック。それは、遠い未来の話ではなかった。もう、始まっているのだ。ジェネシス計画は、未来の危機から逃れるための箱舟であると同時に、現在の危機と隣り合わせの、脆い揺りかごでもあった。
不意に、暗号化された通信回線を示す、特別な着信音が鳴った。黒田官房長からだった。モニターに、彼の感情のない顔が映し出される。
『状況は理解しているな』黒田は言った。『地球が機能不全に陥りつつある今、宇宙のインフラだけは、絶対に守り抜かねばならない』
俺は、黙って頷いた。
『これより、ジェネシス計画は新たなフェーズに移行する。本日、W12評議会は、**《生物学的封じ込めプロトコル》**の発動を決定した。君のチームには、テラ・アンカーと月面基地において、惑星検疫レベルの隔離シミュレーションを、直ちに開始してもらう』
俺は、息を飲んだ。それは、地球で起きているパンデミックを想定した、大規模な防疫訓練だった。
窓の外では、救急車のサイレンが、遠くで鳴り響いていた。俺たちの戦場は、もう、物理的な軌道の上だけではなかった。目に見えないウイルスとの戦いが、宇宙にまで広がろうとしていた。




