第十五話
テラ・アンカーのクルーが地球に帰還してから、一ヶ月が過ぎた。
世界は、彼らを英雄として称えた。奇跡の救出劇は、W12の国際協力体制がいかに強固であるかを証明したと、メディアはこぞって賞賛した。だが、計画の内側にいる俺たちにとって、それは勝利などではなかった。むしろ、自分たちの計画がいかに脆い土台の上に成り立っていたかを痛感させられる、ぎりぎりの薄氷を踏むような綱渡りだった。
その日、俺は宇宙開発省で開かれたW12の緊急対策会議に出席していた。議長は、もちろん黒田官房長だ。彼の前には、JAXAの理事長や、日本の主要な航空宇宙企業のトップたちが、まるで査問を待つ罪人のように座っている。
「まず、クルー全員の生還を成し遂げた諸君の尽力に、W12を代表して感謝する」
黒田は、感情のない声で切り出した。だが、その言葉に安堵する者はいなかった。
「しかし、だ。今回の件は、我々の計画における致命的な欠陥を露呈させた。我々は、宇宙へ進出することばかりに目を奪われ、そこで暮らす人間を『守る』という視点が、根本的に欠落していた」
黒田は、会議室の巨大スクリーンに、今回の救出ミッションのタイムラインを映し出した。タイムリミット12時間に対し、りゅうぐうの到着は、わずか17分前。その下に、赤い太字で、こう記されていた。
『もし、悪天候で打ち上げが18分遅れていたら?』
その一文が、全員の心臓を鷲掴みにした。そうだ。我々は、ただ幸運だったに過ぎない。
「幸運に頼る計画は、計画とは言わない。ただのギャンブルだ」
黒田は、リモコンを操作した。スクリーンに、新しい構想のタイトルが映し出される。
『緊急即応システム《ガーディアン》構想』
「これより、W12は、太陽系における人命救助の体制を、根本から再構築する」
黒田は、断言した。
「第一に、緊急用ロケットの備蓄。ガイアーズ・ポートの世界三拠点――ギアナ、キリバス、ケニアに、常に即応可能な状態の救助用ロケットを、最低でも各一機ずつ、常時配備する。燃料は充填済み。宇宙船も接続済み。命令一下、60分以内に打ち上げ可能な状態で、24時間365日、待機させる」
会議室が、どよめいた。それは、とてつもないコストと人員を必要とする、常識外れの提案だった。
「そんなことをすれば、維持費だけで年間、数百億円が……」どこかの企業の役員が、かすれた声で言った。
「安いものだ」
黒田は、その言葉を冷たく一蹴した。
「テラ・アンカーの総工費に比べれば、誤差だ。我々は、ビルの建設費は議論するが、そこに設置するスプリンクラーの値段は議論しない。これは、それと同じだ。宇宙で活動する全ての人間のための、生命保険なのだ」
そして、黒田は続けた。その目は、まっすぐに俺を見据えていた。
「第二に、目標時間の設定。ガーディアン・システムの目標は、ただ一つ。**『要請を受けてから12時間以内に、地球周回軌道上のいかなる場所へもドッキングを完了させる』**こと。将来的には、この対象範囲を月軌道まで拡大する」
12時間。それは、今回の危機で我々が突きつけられた、絶望的なタイムリミットだった。その時間を、絶対的な防衛ラインとして設定する。それは、技術者に対する、神からの挑戦状にも等しかった。
「そのために、軌道計画室」
俺は、背筋を伸ばした。
「君たちの任務も、今日から変わる。これまでの定常的な軌道計画に加え、常に、あらゆる緊急事態を想定した、無数の救出軌道をシミュレーションし続けることになる。テラ・アンカーがスピンした場合、月面基地で火災が起きた場合、小惑星帯で推進剤が切れた場合……。考えうる全ての『もしも』に対する、最適解を、我々は常に手元に持っていなければならない」
俺は、息を飲んだ。
それは、終わりなき戦いの始まりを意味していた。俺たちの仕事は、もう未来の地図を描くことではない。常に変化する、無数の未来の戦場で、人命を救うための最善手を、考え続けることだ。
黒田は、最後にこう締めくくった。
「ジェネシス計画は、ただの建設プロジェクトではない。人類という種を、次のステージへ進めるための、永続的な『営み』だ。そして、その営みを支えるのは、華々しい打ち上げの成功ではない。こうした地味で、終わりなき、危機への備えなのだということを、肝に銘じてほしい」
会議が終わり、自席に戻った俺は、新しいフォルダを作成した。
名前は、『ガーディアン・プロトコル』。
その中に、最初のシミュレーションファイルを作る。
ファイル名は、『Case-001:テラ・アンカーCO2除去装置、再故障時における、最短ランデブー軌道』。
キーボードを叩く俺の耳に、遠い宇宙で、静かに待機する三機のロケットの、幻のエンジン音が聞こえるような気がした。




