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第十話

 2019年3月。春の訪れと共に、我々の計画は盤石の軌道に乗ったように見えた。

 国際宇宙港テラ・アンカーには、欧州が開発した最新の科学実験棟が接続され、クルーは6名に増えた。日本のH3-Heavyとサキモリは、安定して月への無人資材輸送を開始し、アルテミス・プライム基地の建設予定地には、建設ロボットたちが整地を始めている。世界はジェネシス計画の成功を信じ、W12は人類の輝かしい未来の象徴となっていた。

 俺自身も、JAXAから宇宙開発省へ出向となり、新設されたW12統合管制センターの軌道計画主任として、太陽系規模の複雑な交通整理に追われる、忙しくも充実した日々を送っていた。


 ――その日までは。


「フライト、アノーマリー(異常発生)」

 静寂を破ったのは、テラ・アンカーの生命維持システムを担当する管制官の、冷静だが鋭い声だった。

 統合管制センターの巨大なメインスクリーンに、即座にテラ・アンカーの内部見取り図が映し出される。いくつかの区画が、赤く点滅していた。


「状況を報告しろ」

 フライトディレクター(FD)の低い声が飛ぶ。

「原因不明。各モジュールの二酸化炭素除去装置が、連鎖的に機能低下を起こしています。バックアップも反応しません」


 管制室の空気が、一瞬で凍りついた。CO2除去装置の停止。それは、宇宙で暮らす人間にとって、ゆっくりと訪れる死を意味する。船内の空気という、見えない敵に、内側から殺されるのだ。


「クルーの状況は!」

「現在、CO2濃度が最も低い、日本の八咫烏・居住モジュールへ全員退避済み。ですが、このままでは、そこも24時間以内に危険濃度に達します」


 24時間。それが、6人の宇宙飛行士に残された、命のタイムリミットだった。


 ここからが、地獄だった。

 管制室は、世界中から集まった最高の頭脳が、それぞれの言語(ただし公用語のスペース・イングリッシュで)で怒鳴り合う、混沌の坩堝と化した。

「ソフトウェアのバグか?」「いや、電源系統だ!」「太陽フレアの影響は?」

 だが、テラ・アンカーから送られてくるテレメトリデータは、まるで悪意に満ちたパズルのように、矛盾した情報ばかりを吐き出し続けた。原因が、特定できない。


「緊急帰還船の準備を急がせろ!」FDが叫ぶ。

「駄目です!」俺は、自分の席から思わず立ち上がっていた。「今のテラ・アンカーの軌道では、ガイアーズ・ポートからの最短打ち上げでも、ランデブーまで30時間以上かかる!」


 全員が、俺を見た。俺の計算が、彼らにとっての最後の希望であり、そして絶望でもあった。


「何か方法はないのか!」

「……一つだけ」俺は、震える手でコンソールを叩いた。「テラ・アンカー自身の軌道を変える。エンジンを噴射して、より低い、ランデブーしやすい軌道へ移動させる。それなら、20時間でドッキングできる可能性がある」


「だが、原因不明のシステム異常だぞ! そんな状況で、メインエンジンを噴射するなんて、自殺行為じゃないのか!」

 推進システム担当のチーフが、顔を真っ赤にして反対した。彼の言う通りだった。もし、異常が推進システムにまで及んでいたら、ステーションが制御不能のスピンに陥る可能性さえある。


「他に選択肢はありますか!」俺も叫び返していた。「このまま何もしなければ、彼らは確実に死ぬ!」


 FDは、苦渋の表情で顔を覆った。決断の時が、迫っている。

 その時だった。メインスクリーンに、宇宙開発省の黒田官房長からの、最高優先度の通信が入った。


「状況は聞いている」

 黒田の顔は、モニター越しでも、能面のように無表情だった。

「岡田総理からの伝言だ。『未来は、常に最悪の事態を想定して動け』。――よって、二正面作戦に移行する」


 黒田は、俺たちに有無を言わさぬ口調で告げた。

「地上からは、日本のH3-HeavyとアメリカのファルコンXX、二機の緊急帰還船を、異なる軌道で同時に打ち上げる。どちらかが失敗しても、もう一方がたどり着けるようにだ」


 そして、彼は俺の目をまっすぐに見つめて言った。

「軌道計画室。君たちには、テラ・アンカーの軌道変更を、今すぐ実行してもらう。危険は承知の上だ。だが、我々は、座して死を待つという選択肢は取らない」


 それは、命令だった。

 俺は、ゴクリと唾を飲んだ。自分の計算が、6人の命だけでなく、人類が築いた最初の宇宙の家の運命さえも左右する。


「……了解」

 俺は、震える声で答えた。「テラ・アンカー、軌道変更シーケンス、開始します」


 俺は、コンソールに向き直った。ディスプレイには、赤く点滅する警告が無数に並んでいる。その向こう側、漆黒の宇宙に浮かぶ沈黙の家で、仲間が助けを待っている。

 俺たちの、最初の、そして最大の戦いが始まった。

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