第8話:会話
人間もまた朝と夜の両方を内包している。朝は四つ足、昼は二本足、夜は三本足のなぞなぞの答えが人の一生であるというのは有名な話だ。赤ん坊と老人は正反対の存在だが、誰かの助けを必要としている点では同じといえる。
なら、人生において昼間の時間帯に位置する私は、誰の助けも必要とせずに生きていけるのか。スマートフォンの画面に反射する自分自身に答えのない問いを投げかける。いつのまにかマッチングアプリを開いていた。画面上で笑うmasaと目があい、胸がざわめいた。
「インスタ、見てるぞ。順調らしいな」父はいつもより一段階大きな声で言った。「教室も繁盛してるんだろ」
「べつにお金儲けが目的じゃない。でも、おかげさまで生徒さんの数も増えてきた」
私はmasaのプロフィールを黙読しながら答えた。
「どんな人が習いに来るんだ」
「どんなって、いろいろだよ」
「そのいろいろを訊いてるんじゃないか」
父の話を上の空で聞き流しながら、masaへの返信内容をせっせと考えていた。初めまして。メッセージありがとうございます。その続きをどうしようか悩んでいた。私もぜひお話ししてみたいです、という文章を思いついたが、もう少し会話を続けてみないとぜひお話ししてみたい相手かどうかわからないと思ってやめた。入力しては消して、消してはまた入力してを繰り返していると、父が二人分のお茶と千なりを盆に載せてやって来た。私は慌ててスマートフォンの画面を伏せて置き、
「私に出さなくてもいいのに」
と言った。急いだ拍子に間違って送信ボタンを押さなかったか不安でしかたなかった。
「一人で寂しく食べるより、誰かと食べたほうが美味しいからさ」
父が煎れてくれた緑茶はほどよい温かさで、口に含むと爽やかな香りが鼻へと抜けていった。むかしは電子レンジで冷凍食品を解凍するのにさえ失敗していた父が、お茶を一人で用意できるようになった事実に驚きを隠せない。
「展覧会にはどんな作品を出したんだ?」
お茶を飲みながら父は訊ねた。千なりを口いっぱいに頬張っていた私は、答える代わりにInstagramの画面を見せた。父は画面をずいぶん長い時間をかけて見つめた。気の利いた感想を言おうとして、しかし言葉が見つからないといったふうだった。
私が無理して感想を言わなくていいと伝えようとしたとき、すごいなあ、というごくありふれた言葉が父の口から出た。
「おれはこの手の方面には弱いから詳しいことはわからないが、そう思うよ」
飾り気のない率直な言葉が父らしかった。私は千なりをお茶で流しこんでから言った。
「ありがとう。お母さんの作品も見てみる?」
父の顔色をうかがいながら、母の作品の画像を見せてみる。『ヒューストンの朝』と題されたその作品は、赤や青、黄色といった色とりどりの生地を継ぎ接ぎして、母が住むヒューストンの街並みを描き出していた。父はその作品をこれまた長いこと眺め、沈黙に堪えきれなくなった私は視線を隣の空席に移した。そこはかつて母が座っていた席だった。
やがて父はスマートフォンを私に返してから、
「綺麗だな」
とだけ言って笑った。