第4話:不安
小夜子さんが来てから教室の雰囲気はガラッと変わった。いままでは生徒が黙々と作業し、それを私が黙って見つめる時間がほとんどだったが、小夜子さんは授業中によく質問した。できないことがあると悲しみ、できるようになると心の底から喜んだ。しだいにほかの生徒も小夜子さんに感化されて積極的に質問するようになり、教室に活気が出てきた。
「小夜子さんがいらしてから、教室が明るくなりましたね」
レッスンが終わったあと、ホワイトボードの文字を消しながら私は言った。片付けを手伝ってくれていた小夜子さんは、そうかしら、と笑った。
「あらそう? 私っていつもこんな調子だから、うるさくないといいんだけど」
「そんなことありませんよ。みなさんすごく楽しそうにしてます。もちろん私も」
「ならよかった」
小夜子さんは歌をうたいながら裁縫箱に道具をしまう。ピンクッションを持ち上げる小夜子さんの手がふと私の目にとまった。ややしっかりとした骨格の指にシルバーのリングがきつくはまって窮屈そうだった。結婚生活もまたあの薬指のように窮屈なものだろうか。愛と契約の証しがLEDの光を鋭利に反射するのを私は注意深く観察した。
テーブルの上でスマートフォンが振動した。いつも使っている化粧品会社の公式LINEアカウントからのメッセージだった。
『誕生日を迎える方に特別なプロモーションを提供しています』
そのメッセージで、私は自分の誕生日が来月に迫っていることに気づいた。
誕生日に対する関心は年々少なくなっていく。むかしは家族が祝ってくれたし、恋人がいたころは素敵なレストランに連れて行ってもらうこともあったが、独り身の三十四歳にとって年を重ねることへの思い入れはないに等しい。それどころかむしろ一般的な人生設計と異なる現実への不安があって、将来のことを考えるたびに脳内のどこかでなにかが軋む音がした。芥川龍之介は三十五歳のとき、『ぼんやりした不安』にたえきれずに自殺したといわれている。その彼と同じ年齢に私はなろうとしていた。
「芥川龍之介って読んだことありますか?」
私のとつぜんの質問に小夜子さんは怪訝な表情を浮かべた。
「羅生門とか地獄変みたいな代表作なら。先生は芥川が好きなの?」
「全集を持ってるんです。学生のころに古本屋で見つけて」
嘘ではなかった。大学時代、友達が少なく一人の時間が多かった私はまわりの子たちが遊びに出かけているあいだ本を読み漁っていた。芥川の全集は初めてできた恋人に浮気され別れたときに買い揃えた。夏休みだった。彼と行くはずの旅行がキャンセルになった私はとにかく暇を潰す手段を必要としていたのだった。
「文学少女だったのね。なんとなく、先生っぽいな」
小夜子さんは歌を口ずさみながら片付けを再開した。ワンフレーズを聴いただけでも上手だとわかる歌声で、私は思わず聞き入ってしまう。曲名がどうしても思い出せなかったが、サビに差しかかったところで朝の連続テレビ小説の主題歌だと気づいた。