第31話:名前
マサさんはナポリタンを、私はミートソースを注文した。カルボナーラと迷ったが、喫茶店で食べるならミートソースだなという、取り立てて根拠もない考えから選んだ。飲み物はおすすめと書かれていたブレンドコーヒーを食後に出してもらうよう頼んだ。
私の胸は弾んでいた。心地よい高揚感が全身を巡っていた。初めての場所で初めての人と会う。私が久しく経験しなかったことだった。小夜子さんや岡村さんとの出会いも最近のことではあるが、どちらも複数名いるなかでの出会いだった。私は人数がいればいるだけ注意力が分散してしまい、それぞれの相手と話したり笑いあったりして受け取る感動もそこにいる人の数だけ希釈されるのだった。一人の相手から十の感動を受け取ったとしても、そこに五人いれば二の感動に薄まり、十人いれば一になってしまうという具合である。私が大人数での集まりを好まないのはこのためでもある。
しかし今日は相手がマサさんしかいないので、思い出が薄味になるという心配もないだろう。
料理を待つあいだ、自己紹介をしようという話になった。私が緊張して口ごもっていると、それを察してかマサさんが先に話し始めた。
マサさんは本名をマサヨシという。私も名前を知っているような商社に勤めていて、もともとは営業職だったが営業が苦手なのでいまは総務課に配属されているという。大学では英文学を専攻していて、最も好きな作家であるジョージ・オーウェルをテーマに卒論を書いた。正義と書いてマサヨシと読むがいたずら好きな子どもだったので、名前に恥じぬよう生きなさいと母によく叱られたという。
「僕のことは、変わらずマサと呼んでもらってかまいません」
マサさんは最後にそう付け加えた。
今後は私の番になり、私はマサさんにならって自己紹介をした。本名は志織であること。そこまで大きくない会社の事務職員であること。大学では日本文学を学んでいたことなどを語ったが、キルト作家であることは明かさなかった。
「いい名前ですね」
私が自己紹介を終えると、マサさんは噛みしめるように言った。私が自分の名前を褒められているのだと気づかずにきょとんとした顔を浮かべていると、マサさんは私が聞き取れなかった思ったのか、もっと大きな声で、
「いい名前ですね」
と繰り返した。
そこで私はようやく志織という名前について言われているのだとわかった。
「ありがとうございます」
私が答えると、マサさんは嬉しそうに目を細めた。
「詩歌の詩に織物の織で詩織さんという人には会ったことがありますが、志に織で志織さんという名前には初めて出会いました」
「意志の強い人間になってほしいという意味があるそうです。でも、すっかり意志の弱い人間に育ってしまいました」
「織にはどんな意味がありますか?」
私は口を開けたまま固まってしまった。いままで志織という名前の「志」のことなら何度も考え、自己紹介のたびごとに由来を語ってきたが、「織」について考えたことなどなく、そもそも質問してくる人もいなかった。私が答えに窮して黙っていると、
「僕は織という字も好きです」
マサさんは角張ったところが一つもない、まん丸の笑顔とともに言った。
店員が二人分のスパゲッティを運んできた。マサさんのまえにナポリタンが、私のまえにミートソースの皿が置かれ、湯気とともに美味しそうな香りが鼻をくすぐる。
「冷めないうちに食べましょう」
マサさんは食器入れからフォークを二つ取り、片方を私に手渡した。




